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明日を忘れ    1966.05

FORGET DOMANI  (オリジナル詩/曲:N.Newell,R.Ortorani)
  詩:水島 哲 編曲:宮川泰 演奏:レオン・サンフォニエット
  録音:1966.02.21 文京公会堂

   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★ ★★★ ★★★★

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この曲は先週書いた「明日になれば_テイク2」と同じLPに収録されています。
ポップス・カバーは手慣れたものなので「はい、一丁上がり」という感じでしょうか?
アレンジャーや歌手の立場では、そんなことない、結構苦労してるんよ、なのかも?
はい、いい加減にやってないことは良くわかります。
安心して聴けるのでついそんな感覚を抱いてしまうのです。ひどいものがないから。
かといってオリジナルを凌駕するというような凄いものもありません。
いくら私がピーナッツ贔屓だとはいえ、そこまで盲目的に愛してはおりませんから。

さて、それでは日本人によるポップス・カバーなんてのは無用・無意味でしょうか?
当時から上の兄弟なんかが居て、本場ものにやけに詳しい方もいらっしゃいました。
そういう方は決まって日本語カバーものをくだらない、と小馬鹿にしていました。
でも、そうかなあ? 今だと耳にする音楽が多様だからあっちのものも違和感がない。
だけど昔はそうではなくて、やはりテレビでザ・ヒット・パレード等で映像がついて
歌ってくれたからこそ、徐々に耳に馴染んでいったんだと思います。

自分自身、ポップスというのは凄く斬新で、子供にはむしろ歌謡曲よりも親しみ易く、
歌手も身近な感じの人が多くて若者の歌だという印象でした。
今でも不思議なのは、お袋がポップスを殆ど理解出来ていたことです。
親父は全くダメで批判ばかりしてました。自分の価値観以外認めないという人だから。
お袋は日舞(板東流)を教えてました。名取りさんも30人位いて三味線も教えてた。
妹も名取りにはなりましたが、普通の専業主婦の方がお気に入りなんで跡を継がず、
私は物心つかない時に踊らされてる写真なんかありますが、そいういうのは嫌で嫌で、
普通のサラリーマンになったのでお袋は無念でしょうがもう廃業してしまいました。

そんな純日本調のエキスパートみたいなお袋がポップスもすぐ覚えてしまうんです。
これは面白いことです。音楽に国境はない、というのはこういうものか?
ポール・アンカやニール・セダカの曲は日本の歌以上に哀愁があると絶賛してました。
♪恋の片道切符が最高に好きで、日本人では平尾昌晃の歌い方が素晴らしいなどと..
でも、歌詞があまり良くない、英語のままがいい。意味はわかんないけど感じがいい。
なんて率直な感想をいってました。あと、ローハイドの主題歌も気に入ってたかな。

こういう年輩の大人にさえもテレビで日本人がカバーしたからこそ親しまれたんです。
今の時代は、自分たちの気に入った歌が大人にわかってたまるかい! てな調子で、
イヤホーンで聴くのが当たり前になっちゃった。(違ってたらごめんなさい)
それと昔の歌は起承転結方式の、AABAが、1.2.3番と繰り返されるパターンか、
ポップスや宮川さんの得意な、AABABAというのが定番形式だった。
これは、3分間くらいの曲という制限下では人間の感性にぴったりの形式だと思う。
これを無理矢理妙ちくりんな流れに変える必要性はどこにもない。聴くのは人間だ。
メロディー、リズム、ハーモニーというのは小学校でも習う音楽の三要素で基本だ。
このバランスも昔は程よかった。自然な感じがする。明日を忘れてもそういう歌です。
温故知新とまで言わなくても、余りに最近の歌は不自然だと感じませんか?