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サウンド・オブ・サイレンス  1971.10
 The Sounds of Silence
   訳詞:星加ルミ子 作曲:P.Simon 編曲:宮川 泰
   演奏:宮川泰とルーパス・グランドオーケストラ
   録音:1971.06.19 キングレコード音羽スタジオ

  

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

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サイモン&ガーファンクルの名作。今更、曲の紹介など面倒なので省略します。
ところで、
私は、この歌のタイトルの意味がさっぱり判りませんでした。
さすがに「サイレンがいっぱい鳴っている喧しい音」だとは思いませんが(笑)。
テレビなどで歌詞の和訳が親切にテロップで出たことがありましたが、それでも
一体何を歌っているのか理解出来ませんでした。
そもそも横文字はからきし駄目なので、そういうコンプレックスがあるものだから
これはあちらの人が良く使う英語特有の言い回しのようなもので直訳したところで
意味のある日本語にはならない類いの言葉であろうと勝手に解釈しておりました。

実はそうではなくて、欧米の人にとってもこれは大変意味深長な語句のようでした。
「沈黙の音」とか「静寂の響き」ということになるわけで、ありえない言葉です。
漫画でよく使われている「シーン」という吹き出しの文字。あれなんだと思います。
だけど、それって歌になる類いのものなのだろうか?
ネットで検索してみようと思い立って和訳のあるサイトを見つけました。
いやあ、これはなかなかに哲学しているのです。まいりました。
和訳してあっても何を言いたいのか、まだ闇の中です。
そこで、いっそのこと、原文のままで、翻訳サイトで日本語化してみました。(笑)

こんにちは、暗さ(私が眠っていた間に柔らかに徐行するビジョンがその種子を
残したので、あなたと再び話すために、私が来た旧友) また私の脳の中で設けられた
ビジョンまだ、残ります。
静寂の音の内に落ち着かない夢では、私が、敷石の横町を一人で歩きました。
カラーを回した街灯の後光、寒く湿っている。私の目がネオンのフラッシュによって
突き刺された時それは夜を分割しました。
そして、静寂の音に触れました。また、裸の光で、私は1万人(音声が共有しない歌を
書く、聞く人々なしで聞く人々を話さずに話す恐らくより多くの人々)に会いました。
また、誰も、静寂の音を妨害しない勇気があります。
「馬鹿」は言いました、私、「静寂が癌が好きなことを知りません、成長する、あな
たが、私があなたに取る腕をとることを私が教えてもよいという私の約束を聞く、し
かし、暗黙の雨滴のような私の言葉は落ちました。そして、静寂の井戸の中で反復さ
れました。また、人々はお辞儀し祈りました。ネオン神に、それらは作りました。
また、サインはその警告を閃かしました。それが形成していた言葉でまた、サインは
言いました「予言者の単語は地下鉄壁に書かれています。また共同住宅ホール。
そして、静寂の音にささやきました。

なんだこれは...と感じるでしょうが、意訳した和訳であっても、これが五十歩百歩。
似たようなものなのです。ほとんどSF的でオカルトのような世界です。
これは詩なので、言い回しは色々あると思うのですが、言いたい事は今も昔も同じ。
物質的な豊かさは人を真に幸福にするものではない。人と人との魂の交流があって
初めてそれは可能になる。声なき声を聴くように人を思いやらねばいけないのだ。
まあ、大体こういうことが言いたいのじゃなかろうかと私は感じました。
これは人類の永遠のテーマなので、そういう点では古臭い概念の歌ではないのだろう。
しかし、実のところ、まだ、さっぱり理解出来ないのが正直な本音です。

オリジナルが厭世的で、疎外された孤独な心、矛盾を抱えて痛む心で何かを求めて、
という感じなのですが、ザ・ピーナッツの歌は歌詞も含めて優しく慰撫しています。
深い精神性を持つ曲なのかも知れないが、ザ・ピーナッツが歌うとホーム・ソング
のような暖かみを醸し出します。
ザ・ピーナッツの特質は「品の良い、しなやかさ」なのです。
これは歌だけじゃなく、踊りや衣装にも表現されていて鋭くとんがった所がない。
だから、そこに限界があり、喰い足りないような面もあるかもしれないのだけれど
このようにしなやかな雰囲気を出せる歌手はなかなか得難いところもあるのです。

この歌はデュオで歌われるし、もっと厚くしたハーモニーのコーラスでも歌われます。
そして、ハーモニーの技術を聞かせるのにはうってつけの曲なのです。
なのに、何故か、このピーナッツの歌唱はそういう巧さをことさらに感じさせません。
テレビなどで、歌われると、あ、巧いな、あ、凄いなと感じることが多い曲なのに、
このピーナッツの録音では、そういう凄みがまったく無いのです。
野球で言えば、ダイビング・キャッチなどしなくても初めからそこに打球が来るのを
予測してポジションをとっている野手のように玄人にしか判らない名人芸のようです。
また、どんな打球に対しても横ッ飛びなどしなくても、しなやかに打球の正面で取る
フットワークを普段から身に付けているという面もあります。

良くザ・ピーナッツは一卵性双生児なので声質が同じでハーモニーが先天的に美しい、
と言われることですが、楽器の場合も確かにその通りだし、音楽を奏でる面では大変
恵まれていることは間違いありません。
しかし、技術の仕掛けをアピールするには、むしろ異なった声質の(例えば男女での
合唱のように)方が、それぞれがどのように歌っているかが分別出来るので素人にも
技術の有り難みみたいな面が伝わりやすく、へぇ〜と感心させやすいと思うのです。
そういう面では、ザ・ピーナッツには逆のハンディキャップがあるように思えます。

とにかく、そのようなことをついつい思い浮かべてしまうほど、なんとも無理がなく、
ごくごく自然にこの名曲をさらりと歌ってしまうのがザ・ピーナッツ。
演奏表記は、宮川泰とルーパス・グランドオーケストラという物々しい名前ですが、
そこでイメージする大編成での演奏ではなく、宮川泰アンサンブルという風情です。
このアルバムの冒頭曲「ある愛の詩」では、とてつもないスペクタクル・サウンドで
おお、これぞ、グランドオーケストラと言うに相応しいと聴き手の度胆を抜きますが、
全てがこういう風ではなくて曲により編成はフレキシブルなので、この曲では小粋な
線を狙っています。さっぱりとしてコクがあるお洒落な落ち着きがあるのです。

ザ・ピーナッツの歌の路線は次のように分類出来ると思います。

1.流行歌手としてオリジナル・ヒット曲を生み出し、流行らせる。
2.ポップス・カバー歌手として様々な歌を独特に味付けして聴かせる。
3.ホームエンターテインメントとして民謡、童謡、唱歌を聴かせる。
4.スタンダードナンバーをザ・ピーナッツとして歌い、足跡を残す。

この(4)の路線は次のLPアルバムで実現させています。

 1961年 夢であなたに〜ピーナッツのポピュラームード
 1963年 ピーナッツのポピュラースタンダード
 1967年 ザ・ピーナッツ・デラックス(の第2面)
 1968年 ピーナッツ・ゴールデンデラックス(の第2面)
 1970年 フィーリン・グッド〜ザ・ピーナッツの新しい世界
→1971年 華麗なるフランシス・レイ・サウンド
 1972年 世界の女たち(の第2面)

この「サウンド・オブ・サイレンス」は、1971年の録音ですが、10年前の
歌声もフレッシュで鑑賞に耐える素晴らしさなのですか、流石に10年間の技術の
蓄積は凄いもので、まさに円熟芸といえると感じます。
最後のリリースとなった「世界の女たち」でのスタンダード・ナンバーに至っては
もう奇跡としか言い様のない超絶した芸術的な感慨さえ抱くほどです。
この至芸とも言うべき歌い手を我々は失ってしまったのです。
<流行歌手としてオリジナル・ヒット曲を生み出し、流行らせる>ことだけにしか
世間は関心がないのですから仕方がありません。

引退は<そういう表面的活動だけ>にして欲しかった、というのが私の思いでした。
テレビや舞台に出なくてもいいから、アルバム作りだけでも継続して欲しかった。
しかし、ザ・ピーナッツ・ファンの人でも、なかなかレコードを買い揃えるという
人が少なくて、営業的に成り立たなくなっていたのかも知れません。
そのようなニーズが強ければ、例え家庭を持っても、母になっても出来る活動です。
そういう聴く耳を持った人達が(今でも)非常に少ない現実が残念でなりません。
(2004.8.29記)