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里の秋  1971.02
   作詞:斎藤信夫  作曲:海沼 実 編曲:若松正司
   演奏:オールスターズ・レオン
   録音:1970.11.12 キングレコード音羽スタジオ
  

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

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1)静かな静かな里の秋 お背戸に木の実の落ちる夜は
  ああ 母さんとただ二人 栗の実煮てますいろりばた

2)明るい明るい星の空 鳴き鳴き夜鴨の渡る夜は
  ああ 父さんのあの笑顔 栗の実食べては思いだす

3)さよならさよなら椰子の島 お舟にゆられて帰られる
  ああ 父さんよ御無事でと 今夜も母さんと祈ります

日本人なら誰でも知っていて、皆が大好きな歌だろうと思います。
私も子供の頃から、この歌が好きで好きで、田舎暮らしを知らないのに、そういう
風情を感じて、田園のある故郷を持つ人がうらやましいと思っていました。
この歌は、三番まで歌詞があって、ピーナッツのレコードも三番まで歌っています。
ところが、私はずっと、この三番の存在を知らなかったのです。
もしかすると、ザ・ピーナッツの歌で、もう一番歌詞があることを知ったのかも。

三番の歌詞を知らなかったのだから、私はてっきり、亡くなったお父さんを偲んで
母子二人で囲炉裏端で栗の実を食べている情景を思い浮かべていたのでした。
それも何故か子供は娘さんで貧しい農家で..みたいな勝手な想像をして、生活苦など
凄く辛く淋しく暗い感情を抱いてしまって胸が痛む歌だと感じていました。
ところが、三番で、お父さんが帰って来ることがわかって私はホッとすると同時に、
お父さんは海外に行ってたのか、遠洋漁業なのかな、と鈍い私は見当違いの想像を
していたのです。実際に戦争を体験していない人間というのはピンとこないのです。

私の父は去年他界しましたが、海軍で南方へ出征していましたので、この歌のように
さよならさよなら椰子の島と引揚船で、やっとの思いで帰って来たのです。
父は兵隊さんの時、母の家に下宿していたので、周りの薦めで結婚したのだそうです。
明日をも知れぬ時代で、福島の山奥から出て来た父は横浜の人間から見ると、とても
純朴で誠実で良い人柄に映ったのでしょう。慌ただしく式も擧げたそうです。
写真はなかなかハンサムで、母もお嬢様そのままの風情で時代を写しています。

そんな新婚生活も10日と持たず、生木を裂くように父は戦地へかり出されました。
ある晩、母は霧に煙る林の中を歩いて来る父の夢を見たそうです。
頬から血を流してふらふらと歩いて来た父は、こんなになっちまったよ、と言った。
その夢が余りにも生々しかったので母は良く覚えていたのですが、後になって話すと
その夜は、乗っていた「ちぶり」という軍艦が沈没して、夜の海を長時間泳いでいた
その日であったとか。ホントかな、と、ちょっと信じられないオカルト話ですが?

ま、それだけ、相思相愛で、母も空襲下で生き延び、生きて再び会えたわけです。
配給事務を任せられていた母が父母と共に仮住まいしていた公民館に父が帰って来た。
さぞかし、抱き合って、感涙にむせんだのではないかと思うのだが、母は父を見て、
奥の部屋に駆け込んで震えていたのだそうです。
父のボロボロの姿と変わり果てた形相を見て、嬉しいよりも先に恐ろしくなったとか、
それを後年まで父は怒っていましたが、しょうがないよね。イメージ変わったんだね。

18歳の新婚時代に男の人はなんて恥ずかしくて恐い事をするのかと吃驚したという
母ですが、帰宅そうそう、その恐い事をしたので(笑)、すぐ私が生まれました。
私の誕生日から逆算すると、終戦後もなかなか内地へは帰れなかったのだという事が
わかります。「里の秋」は、そういう時代の歌なのですね。
だから単に秋を歌ったのではなく、そんな時代背景の重みも加わった存在感のある
忘れられない歌になっているのだろうと思います。

作詞者である斎藤信夫は小学校の教師をしていて詩を書くことが好きで仕事の合間に
せっせと詩作しては童謡雑誌に投稿していた。
海沼實も作曲家としてはまだ全く無名だった。彼が作った合唱団「音羽ゆりかご会」
の運営もようやく軌道に乗り始めたばかりで生活は苦しかった。
この駆け出し同士の両者は教育者向けの雑誌投稿で知り合った。

斎藤信夫は昭和16年(ザ・ピーナッツが生まれた年です)に「星月夜」という詩を
作った。戦中なので、歌詞は四番まであって、三番が出征している父の武運を祈り、
四番は自分も大きくなったら兵隊さんになって国を守るのだという歌詞であった。
しかし海沼からは何の反応も無く月日が過ぎていった。やがて戦争が激化していくな
かで斎藤自身もこの作品のことは忘れていただろう。もしも海沼がこの「星月夜」に
すぐに曲をつけ、戦前に発表していたら現在の「里の秋」は無かったわけであり、
やはり名曲の誕生には何か運命的なものがつきまとっているのだろう。

戦後、軍歌や戦意昂揚歌の類いは名曲であれ何であれ、全てが抹殺された。
「軍艦行進曲」など海外からも評価されている曲は生き残ったが「君が代」でさえ、
現在に至るも軍国主義に連なるものとして演奏、歌唱を拒む人達も居るのである。
私は「出征兵士を送る歌」が大好きで、シャボン玉ホリデーでも替え歌として歌われ、
メロディーも勇ましいというより哀切で悲愴な名曲だと思うのだが一般には破棄され
余り歌われることもない。こういう扱いにならなかったのはラッキーだと思う。

終戦後、作曲家の海沼実に、NHKから、復員してくる兵隊さん達を歓迎する番組を
放送することになり、その時に流す歌を作ることを依頼があり、適当な歌詞を探して
いたところ戦時中の童謡雑誌から良い詩を見つけ、3〜4番の歌詞さえ差し換えれば
いいと思い立ち、早速作詞した斉藤を呼び、新しい三番を付け加えると同時に題名も
変えることとなった。
そして昭和20年12月24日、「外地引揚同胞激励の午後」という番組で....

 ♪ああ 父さんよ ご無事でと 今夜も 母さんと 祈ります

川田正子が歌い終えたとき、スタジオ内がしーんと静まりかえった。そしてスタッフ
の誰もが一瞬、心が浄化されるのを感じた。次の一瞬、我にかえるとデスクの電話と
いう電話がけたたましく鳴りだした。さっき放送された歌についての問い合わが局に
殺到したのである。更に翌日以降も問い合わせや感想の手紙が束になって押し寄せた。
一つの歌にこれほどの反響があったのはNHKでも初めてのことであった。
かくて、一躍大ヒット曲の作詞者となった斎藤信夫は、だが根っからの教師であった
彼はプロの作詞家になる道は選ばず、やがて教職に復帰した。

以上は、HomePage 銀の櫂:童謡、唱歌名曲コラムの記事を一部引用させて頂きました。
このように要約するよりも原文を読んで頂くともっと感動的です。
http://www.aba.ne.jp/~takaichi/index.htm

さて、ザ・ピーナッツの歌唱に話を戻しますが....
この歌もそうですが、このLPのために唱歌にチャレンジしたわけではないのです。
唱歌を歌うピーナッツはラジオ・テレビ・ステージですっかりお馴染みだったのです。
レコードが出ないのが不思議でならなかったので、やっと実現したというのが実感。
この時、ピーナッツは既に三十路の女でありまして、もっと若い時には少女合唱隊の
ような感じで童謡・唱歌も似合っていたので、ちょっと遅かったのではと思いました。
しかし、そんなのは要らぬ心配で、少女っぽい面と大人の面が程よくミックスされて
歌によってはそれぞれの表情があって、この時期ならではの良さもあると感じます。

CDでは勿論、一枚の片面に全曲入っているのですが、LPではAB面に分かれてて
それぞれ微妙に感触が違います。
 1. 赤とんぼ〜あの町この町〜叱られて
 2. 村祭
 3. 夏は来ぬ
 4. 里の秋
 5. 花かげ
 6. 中国地方の子守唄
これがA面で、アレンジは一貫して、若松正司さん。
ひとつひとつの楽曲が独立しているのではなく、SEも挿入して全体で交響詩の趣を
与えてます。里の秋も前曲のエンディングの弦の持続音を継承して始まるのです。
そして、このA面は子供の視点から書かれた詩の曲が集まっており、低年齢が素材。
B面には歌曲風の曲もあって少々大人っぽいイメージ。
そういう所にも着眼してピーナッツの歌い方に耳を傾けてほしい。

充分な厚みのあるオーケストラをバックに歌われる童謡・唱歌ですが、小味の必要な
所はまるでピーナッツと同じように呼吸しているかのごとく息がぴったり合ってます。
ドラムも電子音も無い、自然楽器の織り成す美しい響きはとても貴重です。
このオーケストラはどういう母体なのか判りませんが、管弦楽の響きが荘重で美しい。
普通のスタジオミュージシャンによるポップスものの響きではないように感じます。
管楽器には特に顕著で、ブラスの管の肉厚がある芯のしっかりした響きが聴けます。
若松正司さんのオーケストレーションは正統派であり、奇抜さは無く充実しています。
こういう凄い録音は同じ童謡唱歌を歌う安田姉妹のCDからは聴く事が出来ません。
やはり、ザ・ピーナッツの時代だからこそ出来た素晴らしい作品だと思います。
(2004.10.10.記)