■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

さよならは微笑んで  1973.08
   作詞:山上路夫 作曲:加瀬邦彦 編曲:宮川 泰
   演奏:オールスターズ・レオン
   録音:1973.05.10 キングレコード音羽スタジオ

   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★ ★★ ★★★ ★★★★

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

この歌は自分の好みには合わない。だからあまり聴きません。
山上路夫さんの作詞は、私の感覚では、作り物というイメージがあります。
ご自分の思いのたけを吐露するといった内奥から突き上げてきたものじゃなく、
職業作詞家として、ある水準の詩を作った、という印象を持ってしまいます。

流行歌というものはCMのキャッチ・フレーズと似たところがあって、一ケ所が
大衆の耳に残ったら成功で、後の部分はそこへ至る経緯の流れとして覚えて貰う
という面があると思うのです。この歌では、
 ♪(また)生きることが辛い時はどうか私に逢いに来てね
ここが売り物、目玉商品で陳列してあるという感じがあります。
この「また」がミソで、弱起の譜割で、引っ掛けて入るので印象的なのです。

だが、私は、ここの部分を聴くと無性に腹が立って来るんです。
「生きることが辛い時はどうか私に逢いに来てね」なんて異性関係があるのか!
「恋人は終わるけど、友達でいましょうね」なんて、そんなのありなのか!
本気でそう思えるのか、そんなにドライに済まされるものなのか!
いや、本当はそうじゃないんだ、無理して言ってるんだから、行間の無言の心を
汲み取って欲しいということなのだろうか? 私には理解不能です。

「追いかけて、追いかけて、すがりつきたいの」そういうものだろう。違うのか?
異性を失うということは、人間の心情としてやりきれないし、動物の一種としても
破滅的状況なんだと思う。自分の遺伝子を残せない人類存亡の危機でもある。
状況は同棲関係のようにも思えるが、やはり一緒に暮らしてみると色々な価値観が
食い違ったり、ちょっと幻滅だなあ、ということもあるとは思うのです。これは、
お互いに完全無欠の理想的な人間じゃないのだから欠点なんていくらでもあります。

しかし、生きることが辛い時に支えになる、ということは根本的に一番大切な部分で
相手を必要としていることを物語ってはいないだろうか?
その部分で必要とする相手などは、そうそう世の中に居るわけがないじゃないですか。
はっきり言って、これは結婚して一生添い遂げる相手なのではないか。
それ以外の何があるのだろうか? 何を詩にしているのだろうか? わからん。

「生きることが辛い時はどうか私に逢いに来てセックスでもして憂さ晴らししようよ」
そういう低次元の歌なのか? そんなものなら歌にしちゃいけません。
何故、別れるのか、そんな清算をしなきゃならないのか、それなら初めから一緒に
ならなきゃいいのに。もっと魅力を感じる異性が出現したというのかなあ。
そもそも私にはそういう浮気っぽい心根というものが理解出来ないのです。
世の中には自分の伴侶以外にも何十億人という異性が存在しますから、色んな魅力を
持った人がいるのは当り前です。でも、あれもこれも自分のものにしたいと思うのは
欲張りだし、ただの哺乳類の動物ではないのが人間です。心があるんです。

ちょっとロリコン気味な私は、テレビで小倉優子が可愛いな〜とか思ったりしますし、
電車でミニスカート&ルーズソックスの女子高校生の太腿なんか見ると血圧上がるし、
ましてや、その娘が隣に座ったりすると、動悸が激しくなって居眠りどころじゃない。
そもそも、外観的に人畜無害な優しそうなオジサンという感じなので、空いてる席が
他にもあるのに、隣に来るようなのですね。
このオジサンは変な事も考えているんだから、来るな、来るなと念じているんだけど
来てしまうのです。なんと無防備な、危ないよ、と言ってあげたくなります。

少女暴行殺人のような事件が後を断たないのが世の常。今も昔も変わりはありません。
こういう事件が起きるとビデオだの雑誌だのがいけないという馬鹿げた批判が起きる。
これは全然的外れで、性愛感情がいけない、それを煽るメディアの野放しがいけない
というのは筋違いで問題の解決にはなっていない。
性愛動機がなけりゃ動物は滅びます。エッチなことは絶対にしなきゃいけないのです。
でも、自分に人生があるように、異性にも人生があるので、それを尊重しなければ
ならないのは当然です。お互いに幸福に暮らせることが第一優先だと思うのです。

相手の意志、生き方を左右してしまい、もっと酷い状況では暴行〜殺人に至ります。
人はどう感じるか知りませんが、殴り合い、殺し合い、という映像が大嫌いです。
こういうものをテレビで野放しにしていいのなら、セックス場面を登場させたって
その方がまだましなのではないか、とさえ感じます。幸福な生産的行為ですからね。

捕鯨が許された昔は教科書に図解が載っていて、捕った鯨は無駄に捨てる部分は無く、
全ての身体の部分は私達の栄養になり、家畜の肥料や生活の道具に生まれ変わるので
素晴らしい恵みとなっているんだと教わりました。可哀想だが納得出来ました。
それと同じに考えるのは変ですが、女性の身体というものは喩えようもなく美しく、
髪の毛から、足の爪先に至る迄、全てが愛おしい神様が作った芸術品と感じます。
単にプラトニックな面だけでなく、こういう存在を簡単に棄てたり出来るでしょうか?

このサイトは、ザ・ピーナッツの溺愛サイトです。
対象をいくら愛しても尽きる事が無いと思っているからこそ、成り立っているのです。
自分の伴侶や一人娘がかけがえのない存在と感じるのと同様に、ザ・ピーナッツの
存在も私には唯一無二のものであり、曲としては他の歌手も聴くことは聴きますが、
比較して云々というのは、家内を他の女性と比べるようなもので、無意味です。
途中で飽きたり、浮気をするくらいなら、初めから夢中になどなったりはしません。
子供時代だって私は一人前の人格があったのであって、大人になったら嫌いになった
などという愚かな価値観を持った子供ではなかったのは我ながら偉いと思います。

凄まじい脱線をしましたが、要は私の熱い思いに応えられる内容がこの歌にはなく、
作詞、作曲、編曲のプロ集団が「情熱の砂漠」のLPに納まる歌として、こんなので
どうだろうか、という感覚で、まあ、いいんじゃないの、と仕事をした感じなのです。
この時代から自分で作って歌うということが流行り始め、それの良し悪しは別として、
このようなプロフェッショナルな仕事の完成度が高くても中身がないじゃないか、と
いった感覚から、自分で作ろう、という時代の流れとなったようにも感じます。
自分で作る方の作品は玉石混交といった面もあって、水準の維持が出来ていないなあ
という悪い面もあり、どっちもどっちであって、方法手段の問題ではなさそうです。
作品の出来栄えが全てであり、繰返し聴くことに耐えられないような作品は好みでは
ありません。残念なことに、この歌は繰返し聴く気が起きない歌なのです。

この歌は何と8ヶ月後に「愛のゆくえ」のB面にシングル・カットされたのですから、
きっと評判が良かったのだろうと思うので、大好きな方も居られるのでしょう。
録音も明晰そのものであり、技術的には何も問題がありません。ただ、音質が乾いて
いるようなのは私には残念な感じがあります。この時代の録音は総じてそうなのです。
マルチトラックで、歌と演奏を別々に採れる時代の産物ですが、音は採れていますが
空気感が無いんです。響きという美味しい隠し味が効いていないのです。
こういう面からも、いい時に引退したのかも知れないと感じてしまう次第です。
(2005.1.23記)