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白い恋人たち  1971.10
 13 JOURS EN FRANCE
   作詞:永田文夫 作曲:Francis Lai 編曲:宮川 泰
   演奏:宮川泰とルーパス・グランド・オーケストラ
   録音:0971.06.09 キングレコード音羽スタジオ

  

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★ ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

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日本語詞や題名を見ると、恋愛映画の主題歌のようですが、実は、1968年にフランス・
グルノーブルで開催された第10回冬季オリンピック大会を記録した映画の主題歌です。
原題名は「フランスにおける13日間」という意味。『男と女』のクロード・ルルーシュ
が監督し名匠フランシス・レイが曲をつけました。レイの繊細なメロディと相まって
単なるドキュメンタリーの枠を超えた美しい映像に仕上がっています。

♪過ぎていくのね 愛の命も
 白く輝く雪が やがて溶けるように
 はかなく消えた きのうの夢も
 あとに残るは ただ冷たい涙ばかり

この「白い恋人たち」の歌詞はどなたが歌うことを想定して作られたのでしょうか?
特にこれという人は決められていないように思うのですが、色々な歌手が歌ってるし、
歌うことより演奏曲として扱われる方が多いとも思います。
それにしても実に素晴らしい歌詞だと感じます。曲だけ聴けば、これに歌詞を乗せる
のは難しいように思うのですが、巧みにメロディーにフィットした詩が書かれている
のは驚くべきことではないでしょうか? この詩以外には考えられないでしょう。

日本語詞を書いた永田文夫さんのお名前を他でも見たように思ったので調べたら、
あの「恋心」の歌詞も作られていました。

♪恋はふしぎね 消えたはずの灰の中から 何故に燃える
 ときめくこころ 切ない胸 別れを告げた 二人なのに

この歌詞もこの歌にはこれっきゃないという極め付きという感じがします。
シャンソン関係の訳詞がご専門のようですが、この系統にはなかにし礼や岩谷時子が
いらっしゃるし、シャンソンは歌詞の教材には適切な世界なのかも知れません。
まったく詩の世界には無頓着で不勉強ですが、これだけ流麗な言葉が紡ぎ出されると
作詞家というお仕事も凄いものだと感心してしまいます。

脱線しますが、この「白い恋人たち」が、あの「冬のソナタ」の韓国オリジナル版で
は使われているらしいです。韓国版DVDを買えばそれを堪能することが出来るとか。
オリジナル版を見た人はNHK-BSで、音楽が差し換えられているのにがっかりし、
どこがノーカット放送なんだと思ったとか。
またまた脱線。桑田佳祐の歌にも同名の曲がありますが、こちらは「白い恋人達」と
「たち」のところを漢字にしているようです。オマージュであることは当然でしょう。

さて、本題のザ・ピーナッツによる「白い恋人たち」ですが、初めてレコードに針を
落としたとき、ふと、既聴感のような錯覚を感じました。
既視感(デジャ・ビュ)という言葉を皆さんもご存知かと思いますが、これと同様に
まだ一度も聴いたことのないレコードなのに、既に馴染んでいる感覚がしたわけです。
恐らく音楽的な物心がついた時点で聴き始めたのがザ・ピーナッツなので、それは、
即ち宮川泰ワールドでもあったわけです。宮川泰編曲しかなかったわけですからね。
この刷り込み現象はかなり強烈ではなかったかと思います。

ザ・ピーナッツ経由という結びつきとは別に、宮川先生のインタビュー記事の中に
こんなお話がありました。

 僕は音楽と美術と両方優れていたんですよ(笑)。そのころの友達なんかはみんな
 「お宮は絵描きになるんだとばっかり思ってた」って言うほど絵がうまかったの。
 鉛筆画でスケッチすると見事に描けちゃう。
 沈んだ戦艦大和の写真なんかを見事に うまいこと描くんですよ。
 戦争画描かせたら最高って言われてね(笑)。それで僕は美術学校行ったのよ。

私は美術学校へ行けるような家庭環境ではありませんが、上記の状況はそっくりです。
私の戦争画は職員室で回覧されていました。高校の校長室、職員室前の廊下、階段の
3ケ所に私の油絵が展示されていました。その3枚しか描かなかったのだけど。
他のことにはさっぱり自信がありませんが、絵だけは一般的なレベルではありません。
ただし、私の場合、絵を描くのは凄くエネルギーが要るのです。
子供の時は時を忘れて描いていましたが、大人になると、とても億劫になります。
技術の研鑽以下の、やる気の問題でもう落第です。これではご飯が食べられません。
サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ、です。やはりこれが怠け者には一番ですね。

才能とか人間そのもののレベルは、そりゃ月とスッポンなのでありますが、どこか、
性癖という点では自分に近い方だという印象を持っています。
照れ屋なクセに、何か人前で表現したくてしかたがない、ところも似ているんです。
何をしていてもダジャレばかり年中考えているようなところも良くわかります。
だから尊敬する人ではなく、親戚みたいな人のように感じてしまいます。
普段はふざけて謙ってモノを言っているくせに批判的に言われると猛然と反撃したり
するという面も(私と同じように)あるのではないでしょうか?

そういう自分の思い込みのせいもあるのか、宮川アレンジまたは宮川サウンドという
世界は実に肌に合っていて、何をしたいのか、これは得意満面になっているな、とか
感覚的にわかってしまうところがあります。
ザ・ピーナッツが好きだから、たまたま偶然ということなのかもしれないのですが、
その偶然という色々な事象が自分の趣味の世界に全て有機づけられて存在するのです。

この世界は実際には存在しなくて、自分が創出した観念の世界だという気がします。
そんなSF小説あるんじゃないだろうか。
えらく晩婚になって結婚した家内も、実は漠然としたイメージがあって、次第次第に
細部が構築出来たら、気がつけば近くにいて、一緒にならないといったら、いいよ。
娘も(そもそも男の子は想定出来なかったので)、自分の子供はこんな風であって、
親子関係はどのようなものにしたいという想像がそのまんま具現化しているのです。
理想という感覚じゃなくて、流行り言葉で言うと想定の範囲内なのです。

仕事の面でもそうです。出世などしたくはないけど、ある程度の収入は欲しい、と
いうことは達成されています。家庭を犠牲にしてなどという馬鹿げた真似はしない。
仕事が終わったら、真直ぐ家に帰って一緒にご飯を食べる。これもクリアできてる。
そもそも時間外労働などという非人間的な状況にないのが素晴らしい。
私の辞書には残業と言う文字はないのです。それで好きな事が出来る給与はくれる。
偉くはならなくても良いが、周囲からは、こういう風に思われたいという感覚的な
人間関係もうまく機能しているし、やっぱり役に立っているというだけでも十分。

ずいぶんと脱線したけど、ようするに、この「白い恋人たち」のアレンジの展開は
やあ、これは凄いな、ではなくて、こうあるべきで、自分ならこんな風に聴きたい
という思う壷に宮川サウンドの方がはまってきているという印象なのです。
ザ・ピーナッツの歌声は上手いとか綺麗とかじゃなくて、もう殆ど無色透明なので、
何の体臭も匂わない、自分の匂いと区別出来ない、そんな私自身との一体感がある。
だからこのレコードやCDを聴いていると毎回同じ音楽の筈なんだけど、何か違う。
それは私自身の脳内で再構築される何かが毎回違うからだと思うのです。

音もそうだが、ただの音波はまだ音でない。音楽も聴く人が居てはじめて音楽になる。
ザ・ピーナッツの歌も私が聴かなければ歌になっていないのです。
お金をかけて沢山色んなCD買い集めても意味は全くないのです。聴かなければね。
私は不思議に感じることの一番大きな事象として、なんで世の中の大多数の人達は
ザ・ピーナッツを聴かないでいられるのだろうか、という馬鹿げた素朴な疑問です。
この歌声を聴いて平然としていられるという神経がよくわからない。
自分は中毒症状なのだろうか、自分がおかしいのか、周囲がおかしいのか、SF的な
テーマがここにも浮かび上がります。
ザ・ピーナッツって他の歌手と同じように聴けるものなのでしょうか?? 謎??
(2005.12.20記)