■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

シンデレラ   1961.12
  CINDERELLA
  作曲:Poul Anka 作詞:あらかはひろし 編曲:宮川泰
  演奏:シックス・ジョーズ・ウイズ・ストリングス
     コーラス:ブライト・リズム・ボーイズ
  録音:1961.10.26 イイノホール

  

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

日本でもお馴染みのシンガーソングライターであるポール・アンカの作品です。
彼の作品をピーナッツが歌うのは「マイ・ホーム・タウン」以来2回目になります。
ポール・アンカはお馴染みでも「シンデレラ」はさほど流行らなかったと思います。
森山加代子とかも歌っていますが、オリジナルを聴いた記憶がありません。
本来はこのようなレビューを書くのであれば、オリジナルを聴いたり、他のカバーを
聴いて、ザ・ピーナッツ盤ならではの魅力を語るのが適切なのかも知れません。
何故そうしないのか、それは蒐集するコストの問題も勿論ありますが、他の盤はその
殆どがモノラル盤だという事実なんです。歴史的名盤以外モノラルを聴きたいという
気持ちにはなれません。私の耳は2つあるので、やはりステレオ録音でなくちゃね。

このレコードは皮肉なことに、カバーとしては2番手、3番手になると思うのです。
この年の紅白では、西田佐知子が「コーヒー・ルンバ」、森山加代子が「シンデレラ」
と、このA面、B面を歌っております。紅白で歌うのは自分の代表曲だからでしょう。
この年は、ザ・ピーナッツは「スク・スク」を歌っております。
西田佐知子の「コーヒー・ルンバ」の作詞は、中沢清二さん。
森山加代子の「シンデレラ」の作詞は、みナみ・カズみ(安井かずみ)さんです。
ザ・ピーナッツの「コーヒー・ルンバ」の作詞は、音羽たかしさん。
ザ・ピーナッツの「シンデレラ」の作詞は、あらかはひろしさんです。
巷で漣健児さんの作詞によりカバーが流行っている時でも、ピーナッツの歌詞だけが、
何故違うのだろうという疑問があったものです。

どうもこれはキング・レコードの訳詞システムに特徴があったものと思われます。
「音羽たかし」も「あらかはひろし」もキング・レコードスタッフのペンネームです。
キング・レコードは東京都文京区音羽にあった講談社のレコード部として1931年
に創業しました。現在の本社社屋もこの近隣にあります。
この音羽という地区は高台にあったので「音羽たかし」というペンネームの由来。
また、キング・レコードの工場が荒川区にありました。(今はないと思いますが)
この荒川区というのは都心を離れた地域ですから、昔は広々とした場所だったので、
あらかはひろし、というペンネームとなったと思われます。

この「音羽たかし」も「あらかはひろし」は、レコード・プロデューサーの方が代々
使っていたペンネームであったという説があります。実際、本当にそうなのでしょう。
しかし、プロデューサーの方だけが使ったのでしょうか? これは疑問です。
もし、そうであれば、キング・レコードのプロデューサーは作詞能力があることが
昇進の条件になってしまうのではありませんか。そんな馬鹿なことはありえません。
レコード制作をプロデュースする能力は作詞が出来ることとは何も関係ありません。
このような単純で短絡的な思考は危険で、誤った歴史観になってしまうでしょう。
あくまで「余技」と考えるのが適切と思われます。そういう才能もある方が居たので
あって、全員がそうではなく、音羽たかし=あらかはひろし=プロデューサーとは
限らないと考える方が現実的ではないでしょうか。

あくまで私の考察ですが、これはレコード印税と関係しているのではないでしょうか。
作詞には2円、作曲には3円、編曲は手間賃一時金で即払いで印税なし、とか。
(宮川泰さんが「恋のフーガ」の編曲はすぎやまこういちさんの配慮で特別に編曲に
 印税を付けて頂いたのが嬉しかったと感謝していた記事もありました)
外国曲の場合、かなり高額を収めねばならず、コストを抑えるには作詞を削るなんて
ことを考えたのではないでしょうか。
キング・レコードの社員がやれば、払うのはお給料だけで済むことになります。
一時的なご褒美程度のお金は貰えたのではと思います。勤め人ならわかるでしょう。

訳詞というのは色々な外国の詩を理解しなければ出来ません。英語だけわかってても
勤まりません。総力をあげれば得意な範疇がきっとある筈です。
キング・レコードの母体は講談社です。ずっとトップクラスの超一流出版社です。
岩谷時子さんが宝塚歌劇の出版部に居たことは有名ですが、宝塚のスターが歌う歌の
訳詞もされていたから、後年のお仕事に役立った筈です。
出版社という業界は恐らく作家を志す方が多く存在したのではないでしょうか?

江利チエミさんのデビューした時代とザ・ピーナッツの活躍した時代は異なります。
外国曲がどっと入って来たのは、ザ・ヒット・パレードの放映が始まった時代です。
プロデューサーが俺がやるよ、と言っていたのどかな良い時代じゃないと思います。
そんなことしていたら過労で倒れるでしょう。
文藝出版を母体にしたレコード会社なのだから、その強みを発揮してチームとしての
作詞を行ったと考えるのが妥当ではないでしょうか?
結論は「音羽たかし」、「あらかはひろし」はスタッフの総称ではないかということ。

「音羽たかし」、「あらかはひろし」のペンネームでの歌詞を他のレコード会社が
使っても差し支えありません、印税をキング・レコードに納めればいいだけですから。
国営放送のNHKのテロップで流れても問題ありません。会社の名前は出ませんから。
このような面白いシステムだったのではないかと想像するのですが確証はありません。
後年のオリジナル曲「恋のバカンス」は渡辺晋社長が色々アドバイスしたというし、
もしかすると渡辺プロ社長宅で生まれていた詩であるということも考えられます。
いずれにしても、個人を特定出来るのは、当事者だけであって、それは、全部には
通用せず、この曲の時はこうだった、ということになるのではないでしょうか?

さて、「シンデレラ」のテーマに戻りますが、オールディーズなどの回顧的番組では
まず聴かれる曲ではありません。そんなに流行らなかったということでしょう。
しかし、ザ・ピーナッツが歌っている「マイ・ホーム・タウン」も「シンデレラ」も
なくてはならない重要な曲じゃないかと私は思うのです。
その年代から代表曲を5曲だけ選ぶ、そしてそれでその年を総括するというやり方は
私の大嫌いな手法なので、その手の番組はあまり見ないことにしています。
自分の生きた青春時代をそんなに軽く扱って欲しくはないのです。

ところで、今年はモーツアルトの生誕250年ということで、あちこちで特別番組が
作られていて、昨夜もNHK−BSでそういう番組をやっていました。
その中で、モーツアルトの楽曲が何故、耳に心地良いのか、という解説がありました。
それはコード進行という使われている音符の流れが、非常にシンプルで少ない和音が
繰返し使われていて、またその流れが自然であり、耳を疑うような奇抜なことはなく、
次はこのようになって、その次はここに落着くという、いわば常套手段から外れない
ことが滑らかさと安心感をもたらすということでした。
それでは単調になってしまいそうですが、そこが、天才なのであって、メロディーが
この上なく魅力的だから、やはり大変な名曲となっているといった主旨でした。

このことは大変に重要なことを示唆していると思います。
今風の歌は歌詞もこれでもかと長々とわけのわからないことを書き連ねているようで
あるし、曲想も規則性を無視しかたのように飛躍してとりとめがないものが多い。
私はそう感じるのです。複雑なものが必ずしも高級であり進歩した姿とも思えません。
昔のポピュラーソングは実にシンプルで学校の教科書にそのまま使える教材みたいで、
音楽の基本的なものをそのまま具現化しているのです。

<C>  Oh, it's getting late This will be our last day ....
<A>  シンデレラ シンデレラ 私をかわいいシンデレラと呼んで ...
<A>  シンデレラ シンデレラ 私をかわいいシンデレラと呼んで ...
<B>  ごらん もう12時になる パパやママにどう言えばいいんでしょう
<A’> シンデレラ シンデレラ 私を素敵なシンデレラと呼んで ...
<A”> ラッタラララ ...(バックコーラスと演奏による、Aの変奏)
<B>  ごらん もう12時になる パパやママにどう言えばいいんでしょう
<A’> シンデレラ シンデレラ 私を素敵なシンデレラと呼んで ...
<C>  Oh, it's getting late This will be our last day ....

このように「シンデレラ」の曲の構成は3つのメロディー要素だけで成り立ってます。
普通の前奏とエンディング部分が<C>として歌われているのが特徴です。
これは典型的でありA面のコーヒー・ルンバも全くこれと寸分変らない構成なのです。
ザ・ピーナッツの歌は、16年間、ほとんどがこの形であり、シンプルなものです。
まず、2〜3回聴いたら歌詞も含めて覚えられるのではないかと想います。
昔はこれで良かったのでしょう。これは欧米でも日本でも共通しているのです。
そんなに今の人間は複雑でないともの足りない程、頭脳が高級になったのでしょうか?
それでもシンプルなモーツアルトは愛されるのです。何か間違っていないかなあ〜。

歌詞の内容も実に他愛のないものです。いじらしく愛らしい。
私にとっては、家内が白雪姫のように素敵であり、娘はシンデレラのように可愛い。
それと同じで、惚れた欲目というものが人間には本能的にあるのです。
私をかわいいシンデレラと呼んで、素敵なシンデレラと呼んで、好きになってね!
とけなげに恋人に訴えているのです。
ずっといっしょに居たいけど、もうこんな時刻。パパやママに心配かけたくないし…
…どうすればいいの……いやあ〜、もう切ないです。
こういう感情がまっとうです。時代が変っても娘さんたちはこのように素直で素敵な
お嬢さんであってほしい。そういう想いもする曲です。

曲の最後にバイオリンが「チュウ」と鳴るところが可愛いです。
カボチャの馬車を引いていたお馬さんが、魔法が解けて、ネズミになったようです。
(2006.01.29記)