■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

♪対自核    1972.12
 LOOK AT YOURSELF
  作詞・作曲:Hensley 編曲:宮川泰
  演奏:高橋達也と東京ユニオン E.Guitar:山本とおる
(LP:「ザ・ピーナッツ オン ステージ」収録)
   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★★ ★★★★★ ★★★★

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

このような楽曲の解説など私にはとても書けません。楽曲紹介はお手上げです。
こうなったらネットで色々と検索して引用するしか手段はありません。
ということで自分の言葉ではない、受け売りでお茶を濁します。

この曲の元祖は「ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)」という名称で、イギリスの老舗
ハード・プログレッシヴ・ロックのバンドということであります。
ブリティッシュ・ヘヴィー・ロックの諸概念をことごとく破砕したとのこと。
これだけカタカナ語が氾濫しますと、もっと意味が難解になりますね〜。
ハード・プログレッシヴ・ロックは言葉的に分解すると「硬質で先進的なロック」と
いうことになりますが、ようするに新しくて力強くて知的要素もある前衛的なロック
とでもいうようなものなのでしょうか。

すなわち、単なる馬鹿騒ぎとか魂の叫びというロックのレベルを超えて、音楽性を
高めた上で、強烈な気迫とか楽器間の戦慄的な掛け合いとか多面的な膨らみを持たせ
上質かつインパクトの強い、純音楽的にも挑戦的な世界を狙ったもののようです。
いわば当時の音楽の最先端ともいえる、また歴史的にも意味のあるパフォーマンスの
豊かな音楽に、ザ・ピーナッツとそのスタッフが挑戦していたということでしょう。
とはいうものの、こういうジャンルに挑戦したこと自体は驚くようなものじゃない。
ザ・ピーナッツを含めた音楽スタッフのアンテナに引っ掛かったからやってただけで、
こういうチャレンジは日常茶飯事のことであったろうと思います。

「ザ・ピーナッツ・オン・ステージ」のアルバムがCDで復刻発売されたことにより、
ザ・ピーナッツ・ファンではない若い人とか、当時はザ・ピーナッツには興味がなく、
ロック・ジャンルのフリークだった方々が再発見してネットで話題になっていたり、
リアル・タイムではLPが出ていた時点では話題にもならなかった事象が起きている。
しかし、そういう意味では、シャボン玉ホリデーで毎週歌っていた、持ち歌ではない
色々な外国のナンバーは私にはどういう素性のものなのかわからない歌がとても多く、
この歌もどこの誰が作って誰が歌ったのかなんてことは知らないけれど違和感なんて
ものは何も感じないでショーの流れとして聴いていたのだ。

ザ・ピーナッツと宮川泰さんのコンビは色んな楽曲にチャレンジしてきたし、それを
自分達の音楽として消化して、どういうわけか、分かりやすいものに変化させている。
だから、元の楽曲が何であれ、それは「素材」に過ぎないのだろうと思われる。
分かりやすさ、という点では、かなり確信犯的にそうしている感じもある。
難しくするな、上手そうに歌うな、それがザ・ピーナッツ陣営の基本的戦略のように
思えるのだ。大衆目線というと卑屈になるが、普遍化という感じかも知れない。
よくピーナッツ節とかいうけれど、タネあかしをすればそういうことのように思える。

そういう面では各ジャンルのコアなファンには喰い足りないところがあったりもし、
音だけ聴いていると、もっと重みとかインパクトが求められるのかも知れない。
ステージというものは音だけで成り立っているわけではないのでビジュアルな側面も
あるだろうし、実際にはトータルな舞台アートとして存在したわけであろう。
ライブという形態はだからザ・ピーナッツの録音は不満も残るのである。
いわゆるソロ・コンサートというより、総合的なパフォーマンスを見聞きして頂いて
楽しんでもらう形式なので、ライブ録音でその良さが伝わるというものではない。
だから、ステージ上ではどういう光景であったのか想像しながら聴くことにしている。

このアルバムを聴いていると「歌伝説/ザ・ピーナッツの世界」の上っ面を見た人が、
歌謡曲路線に転向して、以後パッとしないので引退したという印象を持った人がいて、
それは違うんだけどなあと思う。これを聴けば、その誤解が解けると思う。
ザ・ピーナッツに限らず、営業用路線と並行してクオリティ路線というものがあって、
シングル盤を売るための大衆に受けようとするセールス面では目先を変える面があり、
歌謡曲風の歌も僅かながら歌ったが、実際の舞台ではこのアルバムに収録されている
位置付けそのままであって、それらはメドレーで済ませてしまっている。
勿論、歌謡曲自体がレベルの低い音楽というわけでもないのだが、その世界に没入し、
専念する歌手へ変貌したわけでもない。ザ・ピーナッツならではの歌謡世界も面白い
試みであり、「大阪の女」なども独特の情緒があるが、演歌歌手になったのではない。
主体はそこにはなく、ザ・ピーナッツの持つアイデンティの本質は不変なのであって
チャレンジし続ける姿勢は脱帽もので、堕落などという気配は微塵も感じられない。

ものの本質を見極めるという観察眼は例え娯楽的要素である歌謡ショーやバラエティ
番組鑑賞でも必要なことではないだろうか。
送り手側の意識レベルが高いことが本物を見聞きできる必須の要素であり、流行もの
を興味本位で追いかける軽薄さとは得られる感動の質が異なっている。
海外進出というチャレンジから方向転換した時点で、以後の目標を二分化して考えた
のではなかろうか。それは多くの大衆に迎合される歌を歌っていかなければ、という
ヒット曲作りをする道と、培って来た才能をもっと展開する方向を併せて進めること。
その結果として、このような歌もステージで披露することになったと思うのです。

これは民音という良い音楽を適正な価格で聴く為の団体主宰のコンサート録音である。
ザ・ピーナッツの出演する興行はこのような耳の肥えた人を対象にするものが多い。
私の育った川崎市は一応100万人が住む中核都市であったが、ザ・ピーナッツの
ショーというものが開催されたことがなかった。演歌歌手のショーは多かった。
東京と横浜の立派な設備を備えたホールでしか、ザ・ピーナッツの舞台を見ることが
出来なかったのである。川崎は文化の狭間であったのかも知れない。
暴力団などが陰で操るような興行師の絡む地方公演には縁がなかったという事であり、
ザ・ピーナッツ・ファンだけが見に行くようなショーを私は見たことがなかった。
これはファンとの馴れ合いのような甘っちょろい舞台とはなりえず、いつも緊張感を
持ってステージに臨むことになったに違いない。
そんな真剣勝負の気迫のようなものも、この録音には感じられるのであります。

レコードとCDを聴きくらべると、このライブ盤に関してはCDが優位にあると思う。
ライブ録音というのはどうしても音が廻り込むので雰囲気はあっても音響の明晰さで
不利になると思うのだが、CDが持つ音の輪郭の強調感が響きを凛々しく際立たせ、
曖昧になりがちな面を救っている。これはなかなか素敵な感じなのである。
ただし、レコードとCDに共通する不満は、これは無理な相談でもあろうことを承知
でいうのであるが、高橋達也と東京ユニオンのビックバンド・サウンドが十分に捉え
られていないなあ、という残念な面がある。ブラス・ロック風な軽い響きだ。

この曲でも実際のステージのサウンドは凄いものだろと推察出来るが、電子楽器や
パーカッション類にボリュームをある程度占有されている音作りのためか13人もの
管楽器群が奏でるエネルギーが十分に収録されているとは言い難い。
それだけにもっと高度なオーディオ装置で再生すれば実際には入っている筈であろう
埋もれた厚みが聞き取れるのかも知れない。
このようにサウンド面でも奥深いのがザ・ピーナッツの録音なのであって、携帯用に
圧縮したソースに変換などをしたら上っ面を聴くだけになるので注意が必要だろう。

正直に申し上げて、当時リアルタイムでこのような曲を聴き手が消化吸収出来たかと
いうと、かなり疑問符付きとなると思う。
私を含めて殆どの人が理解出来ず、消化不良のようであって、それでも宮川泰さんの
アレンジ・マジックとザ・ピーナッツの日本人感覚の歌唱とで、説得力のある力技で
聴き手をわくわくさせることが出来ている。これはなかなか出来ないことだろう。
ピーナッツと宮川先生のコンビでは「恋のバカンス」とか「ウナ・セラ・ディ東京」
のような楽曲しか世間には認知されていないけど、それだけじゃないんだよなあ、と
この演奏などを聴くとついつい思ってしまうのでした。
(2007.2.4記)