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♪私と私    1962.05
東宝映画「私と私」主題歌
   作詞:永 六輔 作・編曲:中村八大
   演奏:レオン・サンフォニエット
   録音:1962.03.23 文京公会堂
    

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★* ★★★★★ ★★★★ ★★★★*

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ザ・ピーナッツ・ファン向けには解説不要とも思える映画主題歌です。
その映画とはザ・ピーナッツの数少ない主演映画である「私と私(東宝)」。
ザ・ピーナッツは当時は大変な人気者であって出演映画も多数存在するし、
映画自体もテレビに押されかかってはいたが、まだ衰退時期ではなかった。
したがって、観客動員数は1250万人という多さであった。
もっとも「私と私」で動員されたわけではなく「キングコング対ゴジラ」の
併映作品だったからなのである。

映画としては超退屈な作品ではあろう。
原作である週刊平凡連載の「私と私」(中野実/著)では、それなりのスリルと
サスペンス味があるものの、映画脚本では大幅に改作されている。
(当時、単行本化され、買って読んだが、小説としても凡作だなとは思った)
だから、殆ど事件らしき事象もなくてドキドキする場面もなく、予定調和的で、
観たからといって他人と話が弾むというような面白さもほとんど無い。
まあ、ふつうの生活があるようなもので、ザ・ピーナッツという歌手が誕生する
ことが最大の出来事なんだから、先も読めてしまうのだ。

だから無価値なのかというと私はそういうものじゃないと思う。
だれも死なないから刺激がないというならば「3丁目の夕日」だって同じことだ。
ああ、いい時代だったね、というだけでも価値が有る、今やそういう面がある。
ザ・ピーナッツはもちろん、クレージー・キャッツも出て来るし、有島一郎も
淡路恵子も父母役で出て来る。それだけでも大変な値打があるというものだ。
そもそも普及し始めたテレビだって14インチの小さな画面でおまけに白黒。
人気者のザ・ピーナッツを大画面でカラーで見る機会が普通の人にはなかった。
映画というものは大変に有り難いもので、今でも価値は不変だなと私は思う。

ここで、ちょっぴり自サイトの関連ページも紹介しておきます。
http://peanutsfan.net/w_watashi.html
http://peanutsfan.net/BM370901.html

先に書いたように併映作品のおかげで多くの人がこの映画を観ているのである。
同じ渡辺プロの植木等さんの無責任シリーズ大当たりでウハウハの東宝サイドが
お礼代りにザ・ピーナッツ主演映画を組み合わせてくれたのだろうと私は思った。
そのおかげで「モスラ」に引き続いてまたもや私は立ち見で見るはめになった。
クラス会などで話をすると、「私と私」という映画を観たのだという記憶は薄く、
それなのにツキちゃん(伊藤ユミ)が自転車に乗って歌った場面を覚えている。
これは「青い山脈」の映画のサイクリング場面の影響なのだろうか?

その点では「私と私」の挿入歌の中では「二人の高原」が一番インパクトがあり、
あれを主題歌にした方が流行ったのかも知れない。実際どうだかわからないけど。
それというのも主題歌の「私と私」も副主題歌の「幸福のシッポ」も淡々として
至ってのんびりムードの曲なのである。
特に「私と私」は、至極まったりとした曲だし、天国的にだらだらと長い。
それが駄目とは言わない。この日溜まりに寝転んでいる猫のような幸福感が良い。
むしろ、他の歌がせちがなく聴こえるほどである。のんびり生きるほうがいいよ。

信じられないかも知れないが、宮川泰先生は世間的にはまだ無名の存在だった。
だから、ザ・ピーナッツの主演映画だというのに音楽は中村八大が担当している。
この歌の作詞も岩谷時子や安井かずみではなくて永六輔である。68コンビだ。
既に「上を向いて歩こう」のヒットで有名ではあった。
このコンビはある意味で流行る歌を作ろうなんて意識はなさそうである。
だから、この「私と私」の脳天気な屈託のない長閑さが生まれたのであろう。

話はやや飛躍するが、NHKテレビの「熱中時間」という番組をご存知でしょうか。
ここには色んなマニアというかヲタクというか、凝り性な方々が登場いたします。
代表的なのは鉄道マニア。俗に言う「鉄ちゃん」が有名な存在で、ふつうの人なら
見逃してしまうような妙なものにこだわってしまう不思議な人種たちです。
ザ・ピーナッツにこだわる人はさしずめ「ピーちゃん」かな?
芸能界での「ピーちゃん」といえば、桑田佳祐が筆頭格といえると思います。
その夫人である原由子さんのアルバムが出たので買ってみた。

このアルバムの中で「私と私」が歌われている。
このこと自体が驚くべき事象なんである。「私と私」をカバーすることが異常事態だ。
まあ、普通の人は「私と私」なんか忘却の彼方なんである。それが定説だろう。
そこがただならぬザ・ピーナッツ・フリークの証しといえる快挙といっていい。
なんだけど、なんだけどね、これって宴会芸だとしか私は思えない。

私は永年湘南に存在した企業に定年まで勤務していた。
ここ湘南において桑田佳祐の知名度は抜群で、サザン・オールスターズのチケットは
プラチナ・ペーパーであり、大きな声では言えないが、投資目的で買う人も居たのだ。
これを観に行った人は自慢話のように感想を述べていたこともある大イベントなのだ。
そういう場で、そういう背景でこそ聴かれる宴会芸がこのCDなんだなあと私は思う。
なんか、一人でこれをステレオで聴いていると馬鹿にされているような気がするんだ。
そういう聴き方は相応しくないような感じなんだなあ。

打込みサウンドがいけないと断言するのはマズイとは思うのだけど無機質な感じだ。
無機質とは何だ、というと、炭素化合物の生物の感じがないということ。
炭素とは「C」の記号で表わし、こいつは手足を人間と同じに4本持っている。
この4本というのが素敵なんで、色んな結合が出来るからバリエーションが多彩。
私はザ・ピーナッツは有機的だからこそ素晴らしいと思っている。
炭素は単体ではダイヤモンドにもなる凄いものなんだけど、手足がいっぱいあるので
単体で価値を論じるのでは木を見て森を見ずということになってしまう。
植木等を個人として眺めるよりも、クレージー、そして、ザ・ピーナッツとの融合と
して楽しむ方が本当の良さがわかってくるというものなのだ。それと同じだ。

ザ・ピーナッツの「私と私」には本物の管弦楽が一緒に奏でられている。
だから寂しい感じがしない。独身時代の自分がどれだけ癒されたか知れないのだ。
原由子のは、独りでは聴けない。誰かが一緒にいなきゃ堪らない。
音楽がなくても楽しいという環境に、これがプラスされて本領が発揮される。
じっとして聴くよりもドライブしながらとか、楽しみを増やすという感じが強い。
改めて聴いて、ザ・ピーナッツの「私と私」の充足度の高さを思い知った感じがする。
おそらく、あと何十年経って聴いても良いものだろうという予感がするのです。
(2008.01.09記)