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♪トゥー・ヤング    1961.04
  TOO YOUNG
   原曲:Sid Lippman-Sylvia Lee 編曲:宮川泰
   演奏:シックスジョーズ   コーラス:ロイヤル・ナイツ ハニー・ナイツ
   録音:1961.02.18
   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

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手放しで大好きな曲です。大好きな歌唱です。大好きな演奏です。大好きな盤です。
音楽の形がいいですね。ジャケットのデザインもいい。あらゆる面でいい仕事です。
持っているのがモノラル盤なのが残念ですが、それも後年の愉しみの下敷きでした。
CDの悪口を言う人も多いようですが、私にはCDは神様のような存在です。
デジタル化の時代がやって来たからこそ、LP時代のこの録音が蘇ったのです。
CDで初めてステレオ録音の素晴らしさに触れた日のことは忘れられない思い出です。

正直に書くと、実際にこのLPを買った時点では、この録音の良さは判らなかった。
この曲の良さもわかりませんでした。
私はまだ14歳であり、中学3年生でもあり、クラシックやジャズなんか全く無知。
おまけに環境面でも長男なので、ジャズ好きの兄や姉が居たわけでもなかったから、
こういうスタンダードナンバーを愛好する素養が育つわけがなかったのです。
それでも年齢や環境のせいにするのは言い訳であって、本人の感性が乏しいに過ぎず、
実際、ジャケットに惹かれて買ったというのが本音でした。

ですから、なんだか耳馴染みのない曲ばかりで、ザ・ピーナッツが音楽のセンセイの
ようなもの。音楽鑑賞を強いられているようなものだったわけです。
ぶっちゃけた話が、ザ・ピーナッツさんの声に触れていたいだけだったのですよ。
なにを歌っていようが、そんなこと、どうでも良いのであって、声を聴きたいだけ。
もっと、ぶっちゃけると、あの小美人の歌声を聴いていたいというわけです。
ザ・ピーナッツのポピュラー・スタンダードを聴くというのではなく不純な動機です。
「モスラの歌」だって意味不明で聴いているので、英語だって同じじゃないですか。
そのうち、このジャンルも、どんどん好きになっちゃいましたよ。

でも、これはとても大事なことなのだったと思うのです。
きっかけはどうあれ、人生に豊かな彩りを与える音楽に触れることが出来たのだから。
ザ・ピーナッツのレコードを数多く聴いているうちに弦楽器とか管楽器の音色をより
美しく再生出来ないだろうかとタンノイのスピーカーなど購ってみたりもしました。
そうすると、あれまあ、弦楽器なんか滅茶苦茶に奇麗な音で鳴るわけです。
こうなると弦楽器主体の音楽も聴いてみたいということになります。
そこで、クラシックのレコードなんかも集め出す。だけど、これもどこがいいのやら
さっぱり判りません。でも、ここが肝心なところです。

「何がいいのか、さっぱり判らない」これって、既に経験済みじゃないですか。
わかんなくてもザ・ピーナッツが歌っているだけで聞き惚れてたわけなんです。
私の脳は一つしかないので、プロセスが同じなら、繰り返し聴けば良さが判る筈です。
案の定、クラシックも大好きになってしまいました。
それに加えてザ・ピーナッツの歌の仕掛けは分かりやすさを第一義としているんです。
歌唱は常にインテンポ(音楽的に安定した拍の長さを保つこと)を基本としています。
不安を煽る高度なテクニックもありますが、そのような草書ではなく楷書の形です。

更に、宮川さんのアレンジもツゥー・ヤングという曲に対するオマージュに撤します。
どのように演奏したら、この哀愁のあるメロディーを活かせるかに腐心しています。
バックに徹底して流れる通奏メロディーを楽器を変えて魅力的に繰り返します。
これが宮川さんはとても得意なようです。
グレンミラー楽団のレコードって、ほとんどこれじゃないですか。
ジャズ用語なんでしょうが「リフ」というのがありますよね。それがリズムだったり、
音の形だったり、ようするに繰り返えされるパターンを称するのだと思うのです。

私の持つ「音楽」の基本形は「継続」と「変化」の絶妙な塩梅だと思うのです。
なにかが繰り返されて、変化を活き活きと際立たせる。また、変化しながらも継続的
な要素を逆に際立たせる。これが音楽の真髄じゃないかと思うのです。
ジャンルや時代により、この塩梅が色々と変わってきたりもしますし、継続が謎解き
ミステリーのように凝っている交響曲のソナタ形式なんてのも生み出します。
この組合せは凄く理知的であったり感覚的であったり、人間的であったり動物的にも
扱われたりします。統一と異端の対比とも言えるかも知れません。

宮川さんは、どちらかというと統一なり継続なりを主体においていて、楽曲の形にも
整然とした印象を与える良い意味での保守的な音楽家だと私は思います。
録音出来ること自体で繰り返しの条件を満たしているという理念での、定形を避けた
楽曲も近代では当たり前のようになってきたし、詩の分野でもそういう傾向がある。
しかし、宮川さんは一回こっきりで起承転結なりを完結させるように書いています。

ベートーベンなんかの時代には録音を繰り返し聴くという環境がなかったわけなので、
楽譜では同じところを繰り返すようにしていましたが、近代の演奏では、繰り返しは
省くのが通例となっています。それでも指揮者によっては作曲者の指定に従います。
私はオリジナル通りに演奏する方を好みます。
苦悩がより苦悩らしくなり、歓喜がこれでもかと溢れます。これでいいのだ。
繰り返したら飽きるのではないかと思われるかもしれないけど、飽きられるようでは
本物の名曲ではないのです。
宮川さんの繰り返しに使われるサブ・メロディーは、その試練に耐えられる美しさを
秘めているのです。合の手のようで実は主役級の重要な役割を持っているんです。

また特筆すべきは録音の「音質」の良さ。素晴らしいです。
「音質」が良い、と書くと、それは様々なイメージを読む人に与えてしまいそうです。
良い音質については、百人百色で全然私の言う音質とは異なる場合が多いと思います。
昔はオーディオマニアではない普通の人の奏でるステレオの音は殆ど低音強調でした。
トーンコントロールで高音は絞り切ってしまうのです。これが当り前でした。
これじゃ音質云々言う資格はないように思うのですが、それでも、あーだこーだ言う。
レコード盤はホコリとキズだらけ。針先はタール状の粘着物がこびりついてました。
MCカートリッジはマニアが使う代物ですが、針交換でメーカーに戻される品物の内、
本当に針を交換するべき状態のものは一割にも満たず、あとは汚れだったそうです。

アナログレコードの方が音が良い、と言う人のどれだけの人が、本来の音質を指して
言っているのかなあ、と考えてしまいます。
よほどの高性能なカートリッジ、トーンアーム、ターンテーブル、プレーヤー匡体を
備えて調整し、かつ高精度で良質なフォノイコライザーを完備しなければ、寝惚けた
トロイ音になってしまいます。本来のレコードの音が出ません。
この再生帯域の狭く鈍い音を安心感があると錯覚している場合が多いのではないか。
高音がシャープに伸びないことがレコードの魅力だとしたら情けない錯覚でしょう。

また、私が言う音質が良い、は、音楽としての音質の良さを言っています。
門外漢ですが写真を例にとります。
画面全域にピントが合って、全てが明晰で隈無く撮れた写真が良い写真でしょうか?
スパイ衛星から撮る写真なら、それが最高でしょうが、ふつうは目的が違います。
写真で何かを表現したいならば、そういう写真は無意味なものになると思います。
これと同じで「トゥー・ヤング」は無響室で全楽器にマイクを近接させ、明瞭に音を
取るという試みじゃないのです。そんな分析的な聴き方を望んでいない。
甘ったるい郷愁のような響きをトータルで作っている。直接音よりも雰囲気の響きを
こちらに伝えてくる、そういう録音です。
クリアじゃないことが、ここでは価値があるんです。

歌もコーラスも素敵に溶け合って、見事なブレンドの味を醸し出しています。
それをCDという新媒体を使いながら、あたかも最高級のアナログレコードのように
心地よく奏でてくれる。もう文句のつけようがないマスタリングです。
最新のCDは「LP時代・銘盤復刻シリーズ」の一枚となりますが、これが素敵です。
私は、このCDを銘盤と称したいと思います。
繰り返しますが、ダイナミックでもシャープでも高解像度でもありませんよ。
そんなのはCDの基本的常識品質なので、それを期待しては私は嘘つきと呼ばれそう。
このCDの響きには本当に聴き惚れます。夢のような好音質ですよ。
(2008.11.11記)