■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

♪三毛猫    1964.04放送
   作詞:安井かずみ 作・編曲:宮川泰
   演奏:シックス・ジョーズ
   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★ ★★★★

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

この曲も生まれた背景などについては、こちら↓を先にご覧下さい。
http://peanutsfan.net/KICS1408.html

今回の随想は、この写真でも見ながら読んで頂くことにいたしましょうか。(ニコッ)

いやあ……いいもんですね。犬や猫がいるだけで気持が和むという感じがしますね。
ザ・ピーナッツさんの表情もいいなあ。寛いでいるという雰囲気出てて、いい写真だ。
私は団地住まいなので動物を飼うことができないので残念です。
こっそり飼っていらっしゃる方も居るんですが、なかなかルール破りが出来ません。
作詞した安井かずみさんも「猫を抱いたマドモアゼル」という歌をご主人とコンビで
作っておられるので動物好きなのかも知れませんし、猫を抱いたマドモアゼルという
タイトルがご自身であるような印象もありますね。

この歌も佳品だと思います。
ちょっと日なたにいる猫ちゃんみたいなもので、別に歌を売り込もうなんて下世話な
作品じゃなく、ちょっといいでしょ、みたいな知らん顔しちゃっても可愛い作品です。
そんなにベタベタとすり寄ってくるわけじゃないけど、眺めてるだけがいいような、
ヒット曲になったり話題になったりすることが不粋な可愛い曲。そういう感じかな。
安井かずみさんの詩と宮川泰さんの曲のコンビネーションがぴったり合ってるように
まるで同一化しちゃってて、この世界を成り立たせているのは素晴らしいです。
ピーナッツの歌声も、この作品に、どんぴしゃと同化してて、他のどなたでも、この
味わいは出ないだろうと思うので、三位一体、この世に天国が一瞬、現れました。

ザ・ピーナッツさんは名古屋近辺で生まれ育っていますが、先日のあるテレビ番組で、
名古屋の人の訛りは、みゃあみゃあ言ってる感じがすると他県の人が印象を述べると、
猫じゃあるまいし、みゃあみゃあ言わないし、えびふりゃあなんて言いませんよ、と
怒っていたのを思い出しました。
そりゃそうでしょうよ。あれは南利明さんの誇張した芸の影響なんだと思います。

しかし、猫ちゃんは可愛いですよね。
朝、ゴミ出しに収集場に行くと、大体定位置に野良猫が何匹か居るんです。
何家族かの系譜があるらしく毛並みで区分出来そうな感じですが、愛嬌振りまく猫と
関係ないもんねと余所見する猫、すぐ逃げちゃう猫と、それぞれ個性があります。
おはよう、とか、そこ寒くないか、とか話しかけると、にゃあとか、みゃあなどと
返事をしてくれる猫がいると嬉しくなって家内に報告しちゃいます。
すると、ああ、あの背中が茶色の縞の猫でしょ、あの子、誰とでも会話するみたい。
なんだ、オレだけじゃなかったのか。ちょっとがっかり。

家内と二人で近所まで買物に出かける時に、猫達の会議場へ出くわすことがあるが、
人懐つっこいのが家内の足下をゆっくり巡って体をスリスリしたりする。
別に家内が餌付けをしているわけじゃないのに、ああいうマーキングみたいなことを
するのが不思議である。私には寄っても来ない。差別だ。
人間の子供とか赤ちゃんも同じだ。家内はほ乳動物に本能的に受け入れられるようだ。
母性的なものを感じるのだろうか、そこは専門家じゃないと解明出来ないだろう。
一方でカラスに虐められたりする。歩いていたら頭を後ろから小突かれたそうなのだ。
こいつは弱者だとカラスが認知したに違いない。中身は強者だと思うんだけどなあ。

私は猫とは疎遠だ。実家に(実家とは言わないか。父母と暮らしていた家)居た時は
犬しか飼わなかったし、今は何も飼えない。
しかし、実家にいた時、近所の猫がよく遊びに来ていた。家の中へも入ってきた。
その中でも可愛い雌の子猫が私は気に入って触ったりはしないが近くで眺めてはいた。
それがある日、コタツで私が寝転んでうたた寝していたら、何やら息苦しいので目が
醒めると私のお腹の上で、その子猫が丸まって乗っているじゃないか。
その猫しか接近遭遇しないので、気に入られちゃったみたいだねと祖母が言ってた。
やがて来なくなったが、どうもお母さん猫になったようだった。

私が離れてから実家では猫を飼うようになった。元は野良猫だ。
車に跳ねられ道路で動けなくなった猫を通りかかった弟が見つけ、動物病院へ行った。
手術費がかなり高額だったが院長さんが半額にするから助けてやって欲しいと言った。
そこで後ろ足の片方を切断することで一命をとりとめたという猫を飼うことになった。
命の恩人であるからか、実家の家族以外には全然懐かない。
遊びに行っても、じ〜っと見つめられるだけで近付いてこないし、餌を私がやっても
受け付けてくれなかった。

それでも数年がかりで徐々に身内と認めてくれるようになって、体を触らせてくれる
ところまでお近づきになれた。
ある日、私が和室で母と話をしていたら、しきりに手で合図をする。
抱けと言ってると母が通訳するので、えっ、本当かな、と思ったが、膝の上に乗って
きたではないか。ある種の感激である。
しかし、もぞもぞ落ち着かないようすでズボンに爪を立てたりする。
ちゃんと収まるようにしろって言ってると母は言うが、そうかな?
やがて丸くなると、そのまま寛いでしまった。

こんなことがあった数日後、その猫が死んでしまった。老衰らしい。
あれはお別れの挨拶だったんだよ、と母がいう。母は猫の気持がわかるようだった。
家族と同じだから、むこうもこっちも大体は意思疎通が出来たのだという。
淋しそうだからと家内が、毛並みがそっくりのぬいぐるみを買ってきたので、それを
実家に持参した。猫が気に入っていた座布団に座らせて居間に居着くこととなった。
母も亡くなり、葬儀も終わったある日、また弟の連れ合いが猫を拾ってしまった。
どうやって家に連れ帰ったか、よく覚えていないらしく、なんでだか無意識に家へ
運んでしまったというので、弟は母が天国から落としたのだと信じている。

(2009.11.30記)


<付録>
短期集中連載シリーズ

ザ・ピーナッツ萌え〜(その9)

録画しておいたNHKのブラタモリという番組を見た。
タモリが街をブラブラして蘊蓄をチクチク語るというだけののどかな番組である。

人生とは妄想である。
教養とは遊び道具である。

こういうことを言っていた。面白いし、真理かもしれないぞ。
宇宙の存在などを想定したり出来る生き物は地球上では人間だけである。
脳の存在こそが万物の霊長たる特徴なので、ここが人間の面白さでもある。
妄想出来ない人間は人間としての価値を放棄してるように思えるし、教養も大切。
新聞のコラムかなにかで、夫婦円満で家族が仲良く出来る秘訣は教養なのだという。
ここでいう教養とは狭い意味の学問的な分野に留まることではないのだ。
学校で教えない世間知、情け知り、なども含めた、総合的な叡智を教養と呼ぶのだ。

思いやりとは想像力の言い換えでもあるし、遊ぶ知性のある生き物は優れている。
想像力の産物である萌え属性という脳内現象は日本人の最も優れた特質のように思う。
萌えの対象の殆どは擬人化された実体のないバーチャルなものである、実体がそこに
存在するものであった場合でも、そこに虚像を自ら創っていることが多いのである。
現実逃避というのは必ずしもネガティブな行動と限定してはいけない。
黒人が産んだジャズという文化も現実を受け入れる必然性があっての音楽への逃避だ。
意識するしないに関わらず萌え感覚が人類を進化させたのである。

あんなことに熱中して何になるんだ、という対象に夢中になった人がいたからこその
今の文明が存在する。しかしながら全部が全部役にたったわけではない。
何の役にも立たず、無意味なことの方が圧倒的に多かったに決まっている。
しかし無限とも思えるムダな萌え活動からこそ凄い発想の人類の発明があり発達した。
このムダこそが土壌になっていて本当のムダになっていないことに気付かねば駄目だ。
ノーベル賞受賞者も、ただの物好きな変人も紙一重じゃないかと思う。

ヲタクの世界は広いと思う。それは一般的に暗示さえている閉塞された部分に留まる
概念とは違うと思う。
何の為にもならないとか、役に立たないということに熱中し研究する面白い人がいる
ことが大事なのだと思う。価値観の多様化が人類を進化させ世の中を楽しくするのだ。
なんだか抽象論になってしまったが、これでこのシリーズはお終いにします。

ザ・ピーナッツ萌え〜完