シャボン玉ホリデー前夜

「ザ・ピーナッツ」という芸名(恐らく史上最高のネーミング)を付けたのは、
日本テレビの井原高忠プロデューサー。(頼んだのは渡辺美佐さん)
後年は反ナベプロ派の旗手となり大戦争を巻き起こしたが、元来はナベプロの
ブレーン的存在であり、発展に寄与した功労者でもありました。
しかし職務上は日本テレビの芸能・音楽関係の最高責任者であり、芸能プロに
制作の権限を丸投げするような環境の変化はテレビ局のありかたをも問われる
由々しき風潮として、あえて喧嘩を売ったものと思われる。
非はナベプロにあり、という策略は、徳川家康が「国家安康」の鐘銘に難癖を
つけた計略のように、日テレ・ナベプロ排斥作戦はまんまと成功した。
そのような生臭い話はさておいて、シャボン玉ホリデーの放送が始まる頃は
一緒に夢の番組を作ろうと思っていたに違いありません。

シャボン玉ホリデーの放送時間枠には草笛光子さんが主役の「光子の窓」という
音楽バラエティ番組があり、制作は上記、井原高忠プロデューサー。
この番組は三年ほど続いたと思いますが、そろそろ改編を考えていたのでしょう。
一方、日本テレビには別の時間枠で、ザ・ピーナッツのレギュラー番組を放送。
これはたしか金曜日の午後10時半の大人の時間に放送されていました。
それは「魅惑の宵」という番組で、更に「夜をたのしく」にタイトルが変更。
(昭和34年10月から、36年4月にかけて、1年半放送された)
ザ・ピーナッツ・ファンにとっては、これの後続番組という側面がありました。


この番組は当時、子供だった私は寝てしまうため見たことがありません。
(当時のテレビ放送は11時台で終了でしたので、最終番組のようなものです)
知らないことは書きようがないので、他のサイト情報などを参考にして下さい。


左:第1回放送のゲスト春日八郎さん。 右:「お伽の国の ピーナッツ」

シャボン玉ホリデー放送開始

昭和36年(1961年)6月4日午後6時30分。日本テレビ放送網で伝説の
バラエティ番組が放送開始となりました。
既に人気絶頂であったザ・ピーナッツを中心にした番組としてスタートしたため、
「ピーナッツ・ホリデー」というタイトルを考えていたそうですが、番組提供の
牛乳石鹸のスポンサー商品イメージを尊重してシャボン玉ホリデーとなったもの。
これは適切であり、洒落たネーミングであったと思います。

♪シャボン玉 ルルルルルルル シャボン玉 ルルルルルルル
 ロマンチックな夢ね 丸い素敵な夢ね リズムに乗せて運んでくるのね
 ホリデー ホリデー シャボン玉 シャボン玉ホリデー

♪シャボン玉 ルルルルルルル シャボン玉 ルルルルルルル
 ダークブルーの空に 光るあの星いくつ 今宵は君と楽しく過ごそう
 ホリデー ホリデー シャボン玉 シャボン玉ホリデー

592回も歌われることになった、このテーマソングの作詞は前田武彦さんで、
番組スタートから後任の作家、青島幸男さんに引き継ぐまで津瀬宏さんと交代で
台本を執筆されておりました。
作曲はザ・ピーナッツの音楽監督とも言える宮川泰さん。シャボン玉ホリデーの
音楽も8割程度を宮川さんが担当しています。

現在ではイメージがつかみにくいのですが、当時の日本テレビは音楽バラエティの
檜舞台という晴れがましさがあったようです。放送時刻もゴールデンタイムです。
しかしながら、ザ・ピーナッツの当時の人気をもってしても放送開始直後からすぐ
大評判となったわけではありませんでした。
視聴率は10%前後であり、まだテレビ受像機の普及も1000万台だったので、
学校でシャボン玉ホリデーが話題になることもありませんでした。

この番組のプロデューサーである秋元近史さんは、せめて半年は続けたいものだと
苦慮し、ゲストも、春日八郎、村田英雄、ディックミネ、中原美紗緒、松尾和子、
水原弘、三浦洸一、若原一郎、江利チエミ、神戸一郎、井上ひろし、コロムビア・
ローズ、灰田勝彦、平尾昌章、鶴田浩二、宮城まり子、雪村いづみ、小坂一也らを
逐次招いて、番組の人気獲得を目差したようであった。

多彩なゲスト:左=松尾和子、中=雪村いづみ、右=水原弘

シャボン玉跳んだ(ブレイクしたシャボン玉)

昭和34年(1961年)8月20日。昭和の一大事件ともいえるような画期的な
レコードが発売された。それは「スーダラ節」という至って怪奇な歌であった。

この歌は渡邊晋社長宅でのブレーンストーミングから発祥した話はあまりに有名。
この曲のヒットを予言したのは、渡邊晋さんと植木徹誠氏(植木等の父君)だけで
あったという言い伝えもある。
ザ・ピーナッツ本人の自筆本というものは皆無で、関連本も殆ど存在しないのだが、
クレージー・キャッツは各自の筆が立つ教養人ばかりで、関連本も非常に多いです。
絶版がほとんどですが、古本屋などで探せば、クレージー研究のネタは尽きません。
ここでは簡略に記述するに留めます。

番組の人気を危惧していた秋元ディレクターも、これで日本も安心だと思ったかも?
この歌の大ヒットによって、シャボン玉の人気も上昇し、15〜20%程度の率を
稼ぐようになった。
この歌は以後のクレージーの連続ヒットも生み出した萩原哲晶さんが作曲したが、
正にシャボン玉発ともいうべき背景に基づいている。
作詞の青島幸男さんはシャボン玉の脚本を書いている作家であるし、演奏をしている
宮間利之とニュー・ハード・オーケストラはシャボン玉のレギュラー・バンド。
これで歌うのが植木屋なんだから、シャボン玉以外の何ものでもないのだった。

上記に加え、同年からNHKテレビで始まった「若い季節」も人気に拍車をかけた。
なんせ、主題歌はザ・ピーナッツが歌って、クレージーが生出演しちゃうのだ。
これが、シャボン玉のエンディング後、1時間経って、NHKに再び登場なんです。
宣伝効果は抜群ではないか。この相乗効果は大変なものだったと思います。
更に、作家も前田武彦の担当回が青島幸男に代わったことも大きい影響があった。
前田武彦さんは優秀な作家で面白いコントを書いたのですが、青島幸男は常識外の
とんでもない作品を生み出すので、これがシャボン玉のカラーにもなったのです。

ザ・ピーナッツの活動は今後もそうなのですがヒット曲作りとシャボン玉の構成に
何の関連も持たせないというユニークな手法で存在感を示していました。
世間では「大怪獣モスラ」の小美人姿と「モスラの歌」で、子供の間では有名人。
そして、ザ・ヒット・パレードでは「スクスク」大売り出しなのにシャボン玉では
あれは別世界とばかり、番組のテーマに沿った選曲しかしないのだった。
タイアップばやリの現代では信じられないストイックさ。これは美学だったねえ。
そんなにガツガツしなくてもザ・ピーナッツのレコードは売れたということか?


(2006.8.18記)

発展的に、昭和37年(1962年)へ続く……