シャボン玉ますます快調

内容的にも充実し、視聴率もお化け番組のようなことはないが堅調な数字を上げ、
人気番組の地位を確立していった年でもあった。

この年に放送された2作品が奇跡的に今でも見る事が出来る。

昭和39年4月19日放送「コーラスばんざい ピーナッツ」
 構成:河野洋 音楽:宮川泰 演出:齋藤太朗
 ゲスト:ダークダックス 前田武彦

閲覧出来る場所→放送ライブラリー

〒231-0021 神奈川県横浜市中区日本大通11
横浜情報文化センター
TEL.045-222-2828 FAX.045-641-2110

● 交通アクセス
 みなとみらい線「日本大通り駅」3番情文センター口直結
 JR・市営地下鉄「関内駅」徒歩10分
 市バス「日本大通り駅県庁前」徒歩1分
● 開館時間
 10:00〜17:00(視聴の申込みは閉館30分前まで)
● 休館日
 毎週月曜日(祝日・振替休日の場合は次の平日)、年末年始
● 入場・閲覧無料

昭和39年8月23日放送「楽器で遊ぼう ピーナッツ」
 構成:青島幸男/秋元近史 音楽:前田憲男 演出:齋藤太朗
 ゲスト:ダークダックス 小島正雄 白木秀雄 鈴木章治

この回も含め、過去、何度かNHKなどの特別番組で全編放送が行われた。
また、映像商品も出たことがあったが、現在は廃番となっている。
(商品の内容はこちら)

上記と同等の映像がDVDで復刻されました。商品リンクはしません。



シャボン玉ホリデーと宮川泰さん

「シャボン玉ホリデー」の音楽は、宮川泰さんの他にも、東海林修、森岡賢一郎、
和田昭治、広瀬健次郎、前田憲男、服部克久、大沢保郎、萩原哲晶らのお名前が
上げられるが、大半は宮川先生が行っており、終始一貫という面でも宮川先生が
主役といってもよいだろう。その宮川先生のプロフィールを紹介しておきます。

昭和6年3月18日、北海道留萌に生れる。
父親の仕事が土木設計技士であった為、小さい頃から、引っ越しと転校を繰り返す。
父親は尺八の都山流の免許も持っていた。趣味で琴をやっていた母は歌が大好きで
子守唄もよく歌ってくれたそうだ。そして家には洋楽のレコードがたくさんあって、
「ドナウ河のさざなみ」とか手巻きの蓄音機で聴いていたという。
お母様は夜、皆が寝静まると「ローレライ」とか女学生愛唱歌集なんかを唄いだす、
泰さんがプロになってからも唄い出す。面白いおふくろだなぁと思っていたそうです。

このような幼児体験が宮川先生の作曲における歌心を育んだのだろうと思われます。

小学校3〜4年の頃、父親の転勤の激しさのため、親戚のおじ夫婦の所に半年間預け
られたが、そこの家にオルガンがあって、泰少年が初楽器を弾いたのはそのオルガン
が最初となった。おじに少しだけ教わって、後は自分で勝手に弾いていた。
右手でメロディー、左手でハーモニーが、最初から弾けたという。
ハーモニーは、誰にも習わなかったけれど、幼稚園の頃からひとつのメロディーを
ハモれた…そういう才能がそんな頃からあったわけである。

ザ・ピーナッツの「ローマの恋」では宮川先生のハモンド・オルガンを聴くことが
出来る。子供の頃から親しんでいたのだから上手いわけである。

昭和17年、北海道の北見中学へ入学した頃、先輩の弾くアコーディオンに憧れた。
楽器屋へ見に行っては「欲しい欲しい」と思っていたのだそうだ。
その後、終戦と前後して今度は九州の大分県へ…転校先は、日田市の日田中学校で、
いよいよアコーディオン購入の夢が実現したのだそうです。
家一軒が建てられるほどの高価なアコーディオンを買ってくれた凄いご両親だ。

ザ・ピーナッツのスタンダード・ナンバー「バンビーノ」他では宮川先生の達者な
アコーディオン演奏を聴くことが出来る。そういう楽しみも聞き逃せないのです。

昭和21年、大阪の富田林中学へ転校後は、6ー3ー3制の新しい学校制度となり、
それまで中学へ5年通った生徒は、高校3年生に編入出来た。当時の宮川先生も、
新学制のもと、高校3年生として、初めての“男女共学”を体験したとか…。
絵が上手かったので絵画クラブに入っていたのだが、ピアノも弾きたくて、クラブを
時々サボっては、講堂へ行って校長先生の奥さんのピアノを聴いたり手ほどきを受け
たりされたという。それまででも弾けたピアノだったが、ここでまともに習ったのだ。

昭和25年、絵画の道に進むべく京都市立美術大学(現・京都市立芸術大学)に入学。
夜は大阪の南のキャバレーでピアノ弾きのアルバイトをしていた。
アマチュアとプロのバンドが交代で演奏をするのだが、その時のプロのバンドで、
うまいピアニストがいるんで『おっチャン、ピアノうまいけど、何やってんねン?』
て聞いたら、その人が『わしは、大阪学芸大学音楽科の主任教授や。』とおごそかに
言われたそうで、それで早速にも試験を受けて、その大学に入れて貰ったという。

そんな経緯で、一年半やった美術の勉強から今度は大阪学芸大学(現・大阪教育大学)
の音楽科へ編入、この頃から本格的なクラシックを学ぶ…。
この大学にはピアノの練習室が20位あり、そこでクラシック以外の曲をよく弾いた。
そうすると友人達が集まってきて、あれ弾け!これ弾け!と…その中に後の奥様が。
ある時『すみません、“テネシーワルツ”弾いて下さい』てリクエストされたとか。
『おー“テネシーワルツ”を知ってるのか?』、女としては珍しいなぁと思ったのが
きっかけ。そこで知り合って、その後も、奥様にはずいぶんと世話になったという。
カンニングをさせてくれたり、ノートを借りたり……。
学生時代、奥様はとびきり優秀で…それで結局、奥様のほうが先に卒業出来て東京へ
帰り、宮川先生は結局6年間もいて中途退学することになった。

たまたま平岡精二さん(ビブラフォン奏者)のバンドが大阪に来た時、宮川先生は
自分で売り込んだら、平岡サンに『明日から来ない?』と言われたので、奥様とも
会いたいし、宮川先生は、すぐ上京した。
上京後、間もなく渡辺晋とシックスジョーズのメンバーに移り、この時の渡辺晋さん
との出会いが、「その後の僕にとって、まさに運命的な出会いだった」という。
渡辺晋さんは統率力のある人だったから、仕事以外の事でもミュージシャンを大事に
してくれましたね。当時、まだ渡辺プロ(ダクション)も小さい会社だったのに、給料
をポンとあげてくれたりね……」と宮川さんは語っている。

渡辺晋とシックスジョーズのピアニストから、作曲・編曲家として独立してからは、
昭和34年スタートの『ザ・ヒットパレード』(フジテレビ))、昭和36年からの
『シャボン玉ホリデー』(NTV)など、テレビ草創期時代に数々のテレビ番組の音
楽を担当される一方、数々のヒット曲を唄った“ザ・ピーナッツ”を育てた宮川先生。
まずザ・ピーナッツに初めて会われた時の印象から,

……宮川さんが伊藤姉妹に最初に逢われたのは渡辺晋さんのお宅でですか。

「いや、もっと前だね。シックス・ジョーズで名古屋へ行ったとき。フェルナンデス
っていうナイトクラブで歌ってるのを聞いて、あんまりうまいんでびっくりしてね。
次の日、僕らが泊まっていた旅館で、バンド・メンバー全員そろってるところに呼ん
で、いろいろ話を聞いたんだ。それで、東京に出て来ないか、って」

……そういう新人の歌い手さんやミュージシャンをチェックするというのは、当時、
  日本全国巡演しながらよくなさってたんですか。

「いやいや、もう偶然。渡辺プロだってまだ歌謡曲を本格的にやる前で、ピーナッツ
に歌謡曲をやらせようなんて最初は思ってなかったんじゃないかな。あくまでポップ
ス・シンガーとして育てるはずだった。ところが、デビュー曲の「可愛い花」、あれ、
向こうの曲なんだけど、メロディーはけっこう歌謡曲風なんですよ。そしたら、あの
コたち、ポップスと歌謡曲の中間みたいなうまい歌い方を自然にやってね」

……それまでの歌い手とは違う魅力、才能というのはどういう所だったんでしょう。

「双子だからかな、非常にハモリが正確だったし、何より声にパンチがあって若々し
かった。その頃日本にもコーラス、いくつかあったんだけど、みんなソフトめにカッ
コよく歌っててね。あのコたちみたいに、お腹からワッと声を出して歌うってのはい
なかった」

……名古屋時代はどんな歌を歌ってたんですか。

「ジャズの「マイ・ハピネス」とか「キサス、キサス」、「ジャマイカ」……。自分
たちの歌のメモリー帳、小ぶりの五線紙のノートを持ってて、一曲ずつ丁寧に書いて
あった。名古屋にいた頃の歌の先生が、譜面をきちんと書いてハーモニーも付けて、
とても熱心に指導してくれたそうです。きっとその先生が、彼女たちの基礎を作って
くれたんだと思いましたね」 (筆者註:その先生とはピアニストの大浦邦夫)

……「南京豆売り(ピーナッツ・ベンダー)」もその頃から?

「いや、それはね、ピーナッツという名前を付けられて(それまでは伊藤シスターズ
って名乗ってたんだけど、それじゃしょうがないから)、それにちなんだ彼女たちの
セカンド・テーマ・ソングとしてデビュー・シングルのB面に入れたの。キング・レ
コードのふっるーいスタジオでね。木の床板がミシミシ鳴るし、機械も粗末でさ」

……デビューするにあたって宮川さんがレッスンをつけはじめた頃には、そうすると
  二人の個性はもう出来上がっていたわけですね。

「そうだね。音程、発声、ハーモニーがよく合う、そういう大事なことは全部。譜面
読むのは最初あまり得意じゃなかったんだけれど、とっても耳がよくてね、1回ピア
ノでメロディを弾くとその場で覚えちゃう。ハーモニーがこうこうでと1回教えると
ハイってすぐにハモれてしまう。持って生まれたもんですよ、これは。そのうち、僕
がピアノ弾いてるだけで、勝手に自分たちでハーモニー付けるようになっちゃったか
らね」

……普通の3度の和音だけじゃなくて、いろいろ付けられるんですか。

「ピアノはこう弾くよと言ったら、その大事な音を拾って、歌いやすいようにスッと
付けるところまでいったからね。感心したよ。お互いに助け合ったり、競争し合った
り、だから覚えが早いんじゃないかな。たとえば歌番組なんかで、フィナーレは出演
者全員でこの歌を歌いますってやるでしょう。そういうときに真っ先に覚えてくるの
がピーナッツのふたり。ふたりとも近眼だからカンペ(歌詞の書いたカンニング・ペ
ーパー)見えないの。最初はコンタクトもはめてなかったし。ふたり揃ってるから覚
えが早いんだよね。後にスターになってからもそうだったから、その曲を知らない歌
手、覚えてきてない歌手も、オールスターの真ん中にいるピーナッツの歌を聞きなが
ら歌ってた。

……声量は……。

あったね。すごく大きな声だった。

……『恋のバカンス』をつくられた時のエピソードは?

「あれは、渡辺晋サンの前で、スケッチを弾いて聴かせて直された思い出の曲です。
(笑)メロディーはいいけど、左手の伴奏の感じは、ポール・アンカの『ユー・アー・
マイ・デスティニー』と同じじゃないかと言われた…事実、それを持ってきて作った
んです。(笑)盗作になっちゃうからやめろと言われ、どうしたらいいか?と聞いたら、
シックスジョーズなんだから4ビート(ジャズのリズム)でやれと言われたんです。で、
その通り作ったらすごく良かったんです。」
「バカンス」も「ウナ・セラ・ディ」もみんな曲が先。「ふりむかないで」なんか、
締め切り間際になってもタイトルしか決まっていない、それで僕が♪ふりむかなッハ
ハーいーでー、ウオゥウオゥウオゥウオゥ、ってひとまずアタマんとこだけ作って、
あとは当時流行ってたコード進行を使ってバック・トラックだけを録る。それを聴い
てメロディを足して、作詞の岩谷(時子)さんとこ持ってくときっちり仕上げてくれ
るってわけ。

……『恋のフーガ』の時は、アレンジを担当されたんでしたね?

「あの曲は、すぎやまこういちサンが作って、僕がアレンジをやった。アレンジで大
事なのは前奏ですよ…あの曲の前奏は、ティンパニーで始まる。当時、歌謡曲でティ
ンパニーから始まる曲なんてなかった。だからすぎやまサンが喜んでくれて、『この
作品で、曲は自分だけど、前奏・間奏・エンディングは宮チャンが作曲してくれたん
だから、印税をあげたい』と、ちゃんと印税をつけてくれたんです。アレンジは通常、
印税がないんだけれど、あの曲だけは格別、すぎやまサンにはお世話になりました。

……大ヒット作の中には『宇宙戦艦ヤマト』のシリーズなどもありますが、あの作品
  についての何かでご苦労などは?

「最初に書いた時は、ドンドン出来たんです……好きなものを書けましたからね。
でも2作目からが苦労して、最後は一番苦しくて悲惨でした。新しい雰囲気のものを
書いても、前のイメージとつながらないとダメなんでね。後のシリーズになるにつれ、
段々とものすごい数のものを書かされたのが苦痛でしたね。」
「だから、僕が当ったのは、まず『恋のバカンス』、その次が『宇宙戦艦ヤマト』、
そして『JRA競馬のファンファーレ』…それでおしまい。(笑)」

……作曲と編曲の違いについては、どの様に思われますか?

「編曲の方が、自分にとって難しいし、苦しみますね…と言うのも、作曲はメロディ
ーだけを書いたものですが、その作品をいざ演奏するための肉づけをしたり、装飾を
ほどこすのが編曲(アレンジ)なんです。だから編曲の場合、音楽的知識や理論をき
っちり習っていないと出来ないんです。」

……「シャボン玉」ではジャズもアレンジしてよく取り上げてましたね。

「ディレクターの秋元さんがジャズ好きな人だったからね、ピーナッツも英語の歌、
よく覚えてきましたよ。後からデビューした伊東ゆかりが英語上手かったから、負け
ん気になって。ドイツでカテリーナ・バレンテのTVショーに出たときもフランスで
レコーディングしたときも、原語で歌詞、ちゃんと覚えてきたからね。努力家だった。

……日本テレビとの思い出をお聞かせ願いますか?

「何といっても秋元近史サン(シャボン玉ホリデーのチーフディレクター・プロデュー
サー)と斉藤太朗サン(多数の番組のプロデューサー・ディレクター)がいなかった
ら、今の僕はいない。特に、斉藤サンは『シャボン玉』以外に、僕をいつも(仕事を)
指名してくれたんです。『ゲバゲバ』も『カリキュラ』も『ジパング』も『ズームイ
ン』も『おもいっきりテレビ』も、全部(僕に)やらせてくれました。ワイドショーの
テーマ曲は、明るくて分かりやすいものがモットーですね。僕の好きな音楽ジャンル
と合っているんですよ。


ロマンチックで素敵な夢のある音楽をありがとうございました。<合掌>


クレージーのレコードも(ひところのブーム程ではないが)堅調に出ている。

ザ・ピーナッツのレコードは相変わらずリリース・ラッシュが続いている。(シャボン玉セット背景のLPもある)

西ドイツで2枚のシングル盤を発売。(現地で作られた新曲)


(2006.9.12記) 昭和40年へ続く……