去る5月11日(日)11時38分。父が84歳で死去しました。
大平洋戦争において最初に乗務していた軽巡洋艦が爆撃で戦闘不能に至るまで
損傷したが父は無傷で、内地へ曳航されたその船の代わりに乗った駆潜特務艇も
米軍機の空爆で真っ二つになって轟沈の際、海中へ飛び込んで一昼夜泳ぎきって
救助されたという強烈な生命力を持っていた父。
昨年10月20日夜、胸が苦しいという狭心症のような発作が起きて入院。
しかし、数時間後に回復し、本人は家に帰るというが検査入院させた。
10月23日、見舞いに行った私が付き添って精密検査で多角的な検査を2時間も
行った。この時に撮影した頭部のCTスキャン画像が後に役立った。
10月24日、急激な四肢麻痺が発生。原因は、骨による頚部脊椎圧迫。
このままでは死に至るというので、緊急手術で圧迫していた骨を削った。
手術は順調で高齢によるショックもなく完了したが、神経系がすでにダメージを
受けてしまっていたため、四肢麻痺は遂に永眠するまで回復することはなかった。
友人知人でも親の介護の話は色々と耳にはしていたが、脳内出血、脳硬塞などとは
異なり、首から上だけが正常という稀な状態であった。苦痛もまったくない。
すなわち、頭脳は健常人と変わりなく、口調も全く正常。食事も通常食なのだ。
これは本人にとっては気が狂うほどの、たまらない状態であったと思う。
神経が既に無いのに、何とか動かそうとする気力は凄まじいものであった。
二ヶ月後、治療すべき病状は皆無となる一方、在宅介護が技術上不可能であるため、
僻地の介護専門病院へ転院することになった。
ウィークデーは家内や妹が行き、土曜は弟夫婦が、日曜には私が片道2時間かけて
入院中の親父の見舞いに行く生活が続いた。
私も疲れるけれど、首から上が正常なだけに、会えなければ淋しいだろうと思った。
ウィークデーの家内には、ありがとうね、という態度で接するのに、
私にはなんだかんだと癇癪含みの文句ばかり..行くのも苦痛になった。
それでも私が食べさせると昼食を全部平らげるのだ。
まるで「残すんじゃない」と叱ったことを覚えているかのように。
4月には、テレビのチャンネルを換えられるようになったのを見せてくれました。
筋肉を動かす神経は既に溶けている筈なのに、これは奇跡に近いことなのだ。
ただ、9時までなので、ジャイアンツが負けるとこが見れない、と口惜しそう。
娘が修学旅行のお土産に馬の人形を買って来たので、ベッドの枠に着けました。
なんで馬なのかというとおじいちゃんが競馬が好きだからというのが娘の発想。
苦笑してたが嬉しそうだった。
4月のその日は和やかで、あれこれ文句もなく、帰り際には「ありがとう..」。
えっ、と振り返ってしまいました。そんなこと私には言わない親父なのに...
いつも腹立てて、ああ、もう来るのを止めようか、と思ってたのに、
哀しい気分で帰宅しました。やっぱり親父は怒ってなくちゃダメだよ。
親父は甘えてスネていたんです。今度は私が親代りにならなきゃダメだ。
そう感じました。
4月28日。家内が見舞いに行くと、前日に吐いてしまったショックで元気なく、
点滴を受けていた。そして、この日から暫く絶食となった。
5月1日。私が行くと、表情が変で、私だとわかっていない様子。また、しきりに
自己とその環境を私に尋ねるのだ。これは大変だ、意識障害が起きている。
医者に聞くと、お年ですから、そういうことも起きますが、大丈夫でしょうという。
しかし、もしも記憶が戻らないことになっては大変だと思い、この黄金週間中に
身内の者は「意識のお別れ」をしておいた方がよい、と感じて、孫、曾孫まで
翌日から交代でお見舞いにいくことにした。
5月4日。前日から意識は正常に戻ったと家内から聞いていたが、逢ってみると
確かに細かいことまでしっかり覚えているし、話もちゃんと通じた。
しかし、ベッドの上のコード類が気になるらしく、斜の配線はちゃんと直せとか
些細なことを要求しだしたので、こりゃかなわん、と早々に帰ってしまった。
そして、5月11日が来た。
前夜、自治会の幹事会があり、その席で、幹事が一人転居することになり、後任の
隣人が順番通り、来年じゃなければやらないと断っているとのことで、総務担当の
私に説得役が廻って来たために、見舞いは家内に行ってもらった。
説得は成功し、引き継ぎの資料の印刷などを行っていたら、電話。
危篤状態という病院からの通報なので至急病院へ行くように母からの急報。
着替えていると、今度は家内からの涙声で電話があった。
結局、家内だけが死に目に会えたが、私が着く40分前に息を引き取った。
最後まで苦痛という感覚はなかったようで、気持ち良く寝ているような顔だった。
先に着いた弟や母の話では看護婦さんが泣いていたのだとか。
こういう病院では患者の死去は日常茶飯事であるはず。
その看護婦さんが裏口から搬出するときも見送ってくれた。
家族に代わって介護してくれて、そんなに感情移入までしてくれるなんて...
とても有難いことだと思った。同時に本当に大変なお仕事だと思った。
身内を亡くした家族にとって葬儀の準備などというのは非情な作業だが、祖父母の
時にもちゃんと仕切っていた親父なんだから、こっちもしっかりしなければ。
当時は実家で行ったが、近所に今年出来たばかりの斎場で行うことにした。
こういう時の葬儀屋というのはとてもありがたい。円滑に段取りが決まって行く。
私の家は名家でもないし、父の兄は事故で早世し、母の兄も戦死してるので親戚も
少ないし、会葬者も少ないだろうからひっそりとだね、と弟と話していたのに、
信じられない程の多数のご近所の方々が来られ、驚いた。280名くらいだった。
父は民生委員をしていたことがあったのでその関係かも知れない。
殆どがお年寄りで、松葉杖をついて片手でお焼香する人も居た。
祖父が亡くなった時に初めて宗派とかを知った程度だったので、もちろん檀家でも
ないのに、お坊さんから個人名の香典を頂いてしまいました。マニュアルにはない。
どうも戦没者の慰霊の時とかの場面で親父が何かお役に立つことをしたらしく
本当に真心のある実直な方でした、と感慨深そうに言われて、私の知らない
親父の一面を見たような気もしました。
病院でもすぐに周囲の人とお友達になってしまうような人付き合いの得意だった父。
その血はどうも弟が継いでいるようでもある。
しかし、身内には厳しくて、褒められた記憶が殆どなく、怒る、叱る、殴るという
鬼のような父であり、親父のような人間にはなりたくないという反面教師としての
存在だったような気がする。しかし、私の顔は親父と瓜二つなのだ。
親父は亡くなったが、その面影は自分を鏡で見れば生き写しだし、弟もそっくりだ。
電話の声なども、父の声にも聞こえるのだ。
もう病院に行かなくてもいいという感覚が実感として湧いてこない。
日曜日の今日、家に居てもいい、というのが不自然な感覚である。
初七日とか、35日、49日というのはもしかすると遺族のための記憶の反芻をする
区切りなのかもしれないなんて思ってしまう。
福島の山奥で生まれ、幼い時に奉公に出され、戦争にかり出され、焼跡から家を立て、
私の人生とは比べものにならない程の苦労をして来た父。
今頃は、美味しいとろろご飯を作ってくれたというお母さんやお父さんと再開し、
優しかった兄さんとも逢えて、昔話でもしているのだろうなと思う。
憎らしかったけど、やっぱり、おとうさん。ありがとうございました。
---合掌---
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