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♪手編みの靴下    1962.10
   作詞:竹内伸光/岩谷時子 作・編曲:宮川 泰
   演奏:シックスジョーズ・ウイズ・ストリングス
    

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★* ★★★★★ ★★★★★ ★★★★★

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基本的に曲名の五十音順に随想を書いているのですが、一昨夜、たまたまNHKで、
「歌伝説 愛の讃歌 岩谷時子の世界」という番組があって、そこで紹介されました。
「手編みの靴下」の一般世間での認識は、園まりさんの「逢いたくて逢いたくて」の
元歌ということになるのではないか、それも歌謡曲に詳しい人だけかも知れない。
だから、両方のジャケットを写し出して、こういう経緯もあったと紹介したのだろう。
それほど、この曲は一般的な認知度は低かったと思われる。
私はそう思っていたのだが、現在はカットされてはいるもののベスト盤のCDには
これが入っていた時期もあったので、あれれ、という意外な感じもした。

さて、この曲についての自分の年代だからこそ知っていることでも書きたい所だが、
実は何も知らないのです。
もちろん、日劇のステージで、「手編みの靴下」という景があって、そこで靴下を編む
ピーナッツが歌った。なんてことは覚えているのだけど、歌が出来てきた経緯などは、
さっぱりわからないのです。忘れたのではないように思う、もともと知らないのです。
ニッポン放送/ザ・ピーナッツ今月の歌じゃなかったような気もするが定かではない。
なにか出自があるはずなんだろうが、さっぱり分からない。
こう書いておけば、親切な方が教えてくれることを期待したい。

作詞は竹内伸光さんと岩谷時子さんの共作となっている。
竹内伸光さんは舞台やドラマの脚本を書いたり、演出もやったりする作家である。
このことから、ミュージカル仕立てのテレビドラマなどの挿入歌の感じもするのだ。
そこで歌われた原詩に磨きをかけ、形式も整えて歌謡曲としての完成度を高めたのが
岩谷時子さんなのではないのかなあ、と、想像してしまう。
当時はそんなことまで深く考えたこともなかった。だって、15歳なんだもの。
15歳でも天才児なら別だろうが、ただボヤッとした今と変わらぬ人間だったからね。

「逢いたくて逢いたくて」にお色直しをする時もあえて同じ岩谷時子さんに頼むのは
マナーというものなんだろうな、と、私は感じた。もう、そういう歳になっていた。
だって他の作詞家に変えたら流行ったじゃ元の作詞家の面目を潰すことになるものね。
アレンジも変えたが、森岡賢一郎さんが今度は担当した。
これは大成功と言っていいんじゃなかろうか。
なんというか凄いサービス精神が入ってるような、受け狙いが大的中の感じなのだ。
流行歌というものは、こんな感じで作られなきゃ、というお手本のようなアレンジだ。

イントロと間奏のトランペット・ソロが凄く輝かしい音色で魅力が大爆発している。
吹奏楽部の中で最も目立ちたがり屋で自己主張の強い人間が集まるといわれる楽器で、
ラッパ吹きとしては、あんな音で鳴らしてみたいと誰でも思うであろう。
もちろん奏者が大変な名人なのはわかりきってますが、どんなマウスピースを使うと
あんなにブリリアントで芯がある硬質な音色を出せるのか興味津々という感じもある。
凄い高音というわけではないから、リム内径は小さくはないだろうけど浅いカップの
ものを使うのだろうと思われる。浅いと音程が心配だけど、名人なら大丈夫でしょう。

不思議なことに、同じ録音なのに、ザ・ヒット・パレード/永遠のJPOP大全集と
いうナベプロ仕様のCDでは、音が大人しい。聞きやすいが聴き応えがないのだ。
園まり名義のCD3種類では、そんなことがない。なんでだろう?
金粉がスピーカーから吹き出してくるような、やりすぎのような感じがいいんだから。
そこへまた、園まりのねっとりフェロモンがたっぷり漂うところに魅力があるはず。
もっとも最近の歌い方は好きじゃない。なるべく伴奏に添って歌ってほしいと思う。
歌詞によって思い入れたっぷりに伸び縮みする表現もあるとは思うが、一番も二番も
同じところを同じ演出で歌っては意味がないと私は感じるのだが、どんなもんだろ?

「逢いたくて逢いたくて」ばかりの無駄話になってしまったが、そのくらいこっちは
インパクトが強い。コントラストが激しいので、店頭効果抜群。売れたはずだ。
だけどね。
私は、ザ・ピーナッツ・ファンなんでね。
内心は、あまり面白くない面もあるんです。この感じ、分かるかなあ……。
やっぱり「手編の靴下」は「手編の靴下」として、そっとしておいて欲しかったのに、
という思いもあるのは事実です。
でありながらも両方が好きなので、ほぼ互角の価値が自分の中にあると思っています。

私の感覚では、岩谷時子さんといえば「あれは十五の夏祭り」に尽きると言っていい。
あんなの初期の試作品みたいなもんだよ、と他人がどう貶しても問題じゃない。
岩谷時子と宮川泰とザ・ピーナッツの魅力が私の中では凝縮している。
このサイトの中に「世界を駈ける可愛い花/ザ・ピーナッツ・フェスティバル」の
公演パンフレットに寄せた岩谷時子さんの言葉が載っている。そこから引用すると、

私の恩人ザ・ピーナッツ
              作詞家 岩谷時子

 私がまだ東宝の文芸部にいた頃だから、昭和三十六・七年だったと思うが、作曲
家の宮川泰さんと私が、日本放送の「今月の歌」という番組で、ピーナッツさんの
ために毎月一曲づつ新曲を書いたことがあった。
 ピーナッツさんも宮川さんも私も新人?で、なかでも私などは「お時さんが書い
た歌はゼッタイ当らない」ので有名だった頃である。
 この番組で、思い出せばなつかしい「あれは十五の夏祭り」「山小屋の太郎さん」
などという歌を夢中で作っているうちに、その中の「ふりむかないで」が、どうし
たわけか当ってしまった。
 当っていちばん驚いたのは私で、続いて「恋のバカンス」「ウナ・セラ・ディ東
京」などがヒットし、ピーナッツさんは、当らないので名高かった私にとって、一
生忘れることの出来ない恩人になってしまったのである。
 舞台やテレビの本番は別として、ふだん仕事をしている時のピーナッツさんは殆
ど素顔で飾り気がなく、歌に対して良い意味でいつもムキになっている。そして、
そんなピーナッツさんが私は大好きだ。
 悩みなくすごすことの出来ない人生と歌の道を二人で手を取り合って乗り越え、
いつまでも私たちに美しいデュエットをきかせて欲しい。そしていつの日か幸福な
結婚の歌をかなでてほしい。
 その時こそ私は宮川さんとすてきな愛の歌を贈って、ご恩がえしをしたいものだ
と思っている。

ここなのだ。
「お時さんが書いた歌はゼッタイ当らない」のであったとしても、私は好きなのだ。
その時代の作品であっても、良いものは良い。
今どき、手編の靴下を好きな人に編む人はいないだろうが、当時だって時代遅れだ。
だけど、通うかしら私のこの真心、と、心を編み込む気持には時代なんて関係ない。
くちづけをしてほしかったの、というストレートな大人の恋にまで至らないところが
「手編の靴下」の魅力なのだ。このウジウジしてる感覚がいいのだ。

夜、ふと、隣で寝ている家内の顔を見ると、寝顔というのはとても可愛い。
どことなく、うんと若い時の面影を思い出させるところもある。
あの時、こんな人と仲良くなれたらいいな、結婚なんか出来たらどんなに素敵だろう。
そう思った時期。口に出してみようか、やっぱり無理に決まってるからやめようかな、
そういうウジウジしてた時期があることも必要なんじゃないだろうか?
ああ、よかったな、今、ここにあの時のあの娘が居るんだ、と思うことが、とっても
大事なことじゃないのか。
そういうことがなかったり、忘れてしまったりするから、大切な人を憎んだり殺して
しまったりという悲劇が起きると私は思う。

この「手編の靴下」は編曲も内向的だ。大向こうの受けを狙っていない。
素直に曲の流れを活かしている。大袈裟な歌じゃないから、アレンジも地味なのだ。
一貫性のある、完成度の高い面もあると思われる。
面白いことにステージなどで歌われる「逢いたくて逢いたくて」はレコードの編曲に
「手編の靴下」の編曲が混じりあっている。よく聴いているとわかりますよ。
宮川さんはメロディーの流れの合間を繋ぐフレーズに長けているので、その部分だけ
「手編の靴下」のそれが復活しているように思います。

というわけで、「手編の靴下」も不滅の名曲だと断言したいと思います。
(2008.02.19記)