■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

♪云えなかったの    1963.03放送
   作詞:岡本克己 作・編曲:宮川泰
   演奏:シックス・ジョーズ
   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★★★ ★★★★★

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

この曲も生まれた背景などについては、こちら↓を先にご覧下さい。
http://peanutsfan.net/KICS1408.html

この歌はヒットしたかどうかは別としても、奥村チヨさんの歌としての印象が強い。
また彼女の歌い方にもフィットしてるし、歌詞自体が、ごめんね〜、で始まるので、
ごめんねジローの姉妹曲のような感じもあるのが、ぴったり感を一層強めている。
まさか、ザ・ピーナッツの歌だったとは迂闊にも知りませんでした。
でも、こうして聴くと、これも全く違和感がなく、ピーナッツの歌なんですねえ。
園まりの「逢いたくて逢いたくて」、梓みちよの「ポカン・ポカン」なんかでも、
元々、ピーナッツが歌ってたというのは余り知られていないのではないでしょうか。
ザ・ピーナッツのお下がりシリーズというか、ピーナッツのカバーのデータベースを
作ったら面白いかも知れませんが、そういうマメさはないのでやりません。

分からないのが、作詞の岡本克己さんという方です。
これは脚本家として有名な方と同人物なんでしょうか?
この方と、ニッポン放送のラジオ番組「ザ・ピーナッツ」とが、どういう関係で縁が
あったのか、そういう面を知りたいところです。
……なんて、書いたら、CDの解説よく見たら、この番組の構成をご担当されていた、
と書いてありました。なあんだそうか、竹内伸光、秋元近史、福地美穂子、塚田茂、
前田武彦、斎藤太朗、すぎやまこういち、こういったザ・ピーナッツの番組スタッフ
の方々が作詞や作曲をしてしまう、ここがザ・ピーナッツ楽曲の特徴なのかも。

そのような意味でも、そもそも岩谷時子さんが、何故この番組に関わり、宮川泰さん
とコンビを組んでオリジナル曲を作るようになったのか。そこが一番の興味であり、
CDの解説には当然書かれるものと期待していましたが、周知のことばかりで残念。
せっかく業界の情報を知ることが出来る立場になったなら、作品としての誕生秘話の
ような、とっておきのエピソードが欲しかったと思う。

まあ、そうは言っても、なんせ半世紀も前の作品であり録音なんだから、調べること
自体が大変でもあろうし、このCDではプロデューサーのインタビューも入っていて
労作だと思うし、熱意というものが伝わってくる。真摯なアルバムです。
そして、この歌もそうですが、ザ・ピーナッツの魅力は汲めども尽きないという感じ
を更に強く抱きます。表層的にヒット曲だけを聴く姿勢では得られない深い幸福感。
あの日、あの頃、ニッポン放送を聴くことが出来た人には是非買って聴いて頂きたい
ものだし、そうじゃなかった私のような人間にも有り難いアルバムだと思います。

曲自体は前述したように、レコードもCDも奥村チヨのバージョンで馴染みであり、
初対面イメージはないのですが、ザ・ピーナッツの歌声で聴くと、どこかしら清楚な
乙女らしい感覚が強まって、どきどきしている感覚が伝わるような気がします。
 ♪何かを 言おうとしたら
  いきなり キスしちゃうんだもン
  だからね あなたに何にも云なかったわたし
なんてところはザ・ピーナッツの声では、どきっとしちゃいます。
奥村チヨさんだと、そうだろうね、と納得しちゃうのは何故かなあ。(笑)

奥村バージョンは昭和41年(1966.5.5)なので、3年余りも塩漬けになってたと
いうことですねえ。随分と間隔が空いたものです。
それでも復活させたのは、関係者はこれはいい歌だという記憶があったからかな?
そういう経緯も知りたいけど……やっぱり半世紀前じゃねえ。
私が小学校へ行っている頃に、日本海海戦(1905年)の戦いぶりを回顧すると
いうのは大変なわけで、同じだけの時間が経ってるわけですから、無理ないですね。
子供の頃、日露戦争なんか伝説でしたからね。ザ・ピーナッツも今、伝説なんだよね。
なんか、ついこの間までシャボン玉ホリデーやってたような気がするのはボケだな。

(2009.01.11記)


<付録>
短期集中連載シリーズ

ザ・ピーナッツ萌え〜(その4)

「萌え」の音楽というと、私の場合、まっ先に思い浮かぶのが「白鳥の湖」なんだ。
これって、もう、お菓子の国みたいなもの。典型的なオタク・ミュージック。
だから、ザ・ピーナッツが歌う「白鳥の恋」も大好物。
甘美の極みでしょう。甘く切なく、胸がきゅーんとなる。そういう音楽の極め付け。
もちろん「くるみ割り人形」も「眠れる森の美女」もこれに匹敵。
チャイコフスキーという人の個人的趣向というものが、本当に良くわかります。
どう聴いても、芸術作品というよりも個人趣味を極めた道楽としか思えない。
「白鳥の湖」なんか全曲が宝石箱をひっくり返したように美しく可憐できらびやか。
とうとうチャイコフスキーさんが死ぬまで一度も再演されなかった悪評作品だったと
いうのだから、ロシアの人はみんな阿呆だったと証明されたようなもの。
これ聴くたびに、どんなに無念だったんだろうか、と切なく悔しくなります。

チャイコフスキーはホモだったとか、そういうゴシップがいっぱい残されています。
なんで、そういうことの方が世間に広まるのでしょう。大衆は本当に愚かです。
そんな情報が、一体、この人の音楽を満喫するのに何の意味があるというのだろう。
これと、芸能雑誌や週刊誌などでの、ザ・ピーナッツの記事も一緒のように思います。
ザ・ピーナッツが誰と付き合っていようが、結婚しようが、そんなの関係ないでしょ。
異性と付き合ったり、結婚したりするのは、どこの誰でも日常的にやっていることで、
そんな記事は無価値でしょうに、そういうのを読みたい馬鹿が圧倒的多数なんだな。

そんな記事じゃなく、歌唱や踊りの進化とか、どういうアルバムを作っているとか、
外国でどういう活躍をしているのか、その詳細とか、ファッションをどう工夫して、
どういった衣装の種類があるとか、どこでどういう歌を歌ったとか、何を感じたとか、
そういう芸能活動面を詳しく掘り下げて取材するなり、カラーグラビアで各種衣装の
後ろ前を写すとか、スタッフと一緒に対談するとか、意味のある趣向はあったはず。
なのに、ほとんどが恋愛問題が主体の記事ばかり多かった。
今でも、この取材姿勢は何も変わっていない。下世話なことが大衆に好かれるからだ。

こういうのは「萌え」の精神とは180度逆方向なのである。しらけるのだ。
ザ・ピーナッツが私達に与えてくれるのは現実の「愛」ではなく、幻想の「夢時空」。
そこに、現実の出来事らしき嘘くさい話を持ち込むなんて、害毒満載のお節介だ。
ザ・ピーナッツという文字があると、つい買ってしまうのだが、ほとんど捨てた。
でも、またオークションで買い求めたり、たくさんの頂きものの資料が集まった。
気にくわないのは載せませんが、なんか、懐かしいなあとも感じます。矛盾してるか。

そもそも「萌え」感覚は脳の半分以上を占有しているように自分では感じます。
つまり、この世の出来事は50パーセントに過ぎないのです。
面白いことに、仕事でも、こういう「萌え」領域に入ってくることもあります。
プログラミングなんか、この世界に隣接していました。
仮想空間での物語なんです。こういうのは得意でした。苦にならないどころか脳の
中で瞬時に完成してしまう面があるのです。手は自動タイプみたいなもの。
人間なにが得意なのかといったら、好きになったものでしょう。面白みのあるもの。
私の作文に従って、1億円のマシンがハードディスクのアクセスで床を振動させて
忠実に懸命に動いているのは凄く痛快。昨日までと今日では何かが変わるしね。

「白鳥の湖」のバレエDVD買ったけど、一度しか見ていない。もちろん綺麗だよ。
でも脳内で思い描く豪華さには現実の舞台は及ばないのだ。
こりゃアニメーションの方がいいんじゃなかろうか。
「花のワルツ(くるみ割り人形から)」などは「ファンタジア」でアニメになった。
あの方が現実の踊りよりも曲の素晴らしさに相応しいかも知れない。
ザ・ピーナッツ萌えは時空を超越している。自分の脳死まで続くのだ。
現実の元ザ・ピーナッツが何歳になろうとも、これは不滅だ。常に現在進行形です。

<以下>ザ・ピーナッツ萌え〜(その5)へつづく。