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♪いつからか    1964.07放送
   作詞:安井かずみ 作・編曲:宮川泰
   演奏:シックス・ジョーズ
   

一般知名度 私的愛好度 音楽的評価 音響的美感
★★★ ★★★★

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この曲も生まれた背景などについては、こちら↓を先にご覧下さい。
http://peanutsfan.net/KICS1408.html

この歌を初めて聴いた時、なんかこの感じはあれに似てるなと思った。
それは、平岡精二さんが作り、ペギー葉山さんが歌った「爪」です。
勿論、曲が似ているわけじゃありません。けだるい雰囲気が似てるのです。
まだ私が幼かったので、この歌がすぐ流行ったのか知りませんが、後年も
ずっと歌われ続けていたので、宮川さんが知らない曲ではないでしょう。
こういう落ち着いた曲想もいいなと思われていたのかも知れません。

宮川作品はサービス満点のアレンジが付きものですが、ここでは大人しく
伴奏の存在を感じさせないような、それでいて珠玉の音符がさらりと並び、
しっとりとした雰囲気を醸し出しています。宮川さんの多彩さを感じます。
派手派手なばかりが宮川さんではないのですね。
そういう視点で思いを巡らすと、地味というか内面的な作品も多いです。
淋しがり屋という面もあるのかもしれません。

作詞は岩谷時子さんが長期間ご担当されていましたが、安井かずみさんに
交代されたようで、上手く言えませんが、愛から恋へ進んだとでもいうか、
乙女心から恋する女心へと微妙な変貌をしたような印象を受けます。
ザ・ピーナッツという存在は私にとって手塚治虫の漫画に出てくるような
丸っこくて可愛くて年齢なんか関係ないというキャラクターなのですが、
やはり少しでも実年齢に相応しい成熟した女性という面も出せるようにと
考えていたのかも知れません。

最近の歌は非常に歌詞が長い。これに比べるとザ・ピーナッツが歌った歌詞は
まるで俳句とか短歌の世界のように短く潔く感じます。
それと近頃の歌詞は、比喩とか怪しくて、何を言ってるんだか言いたいのだか
良く分かりません。
歌詞の為の歌詞を無理矢理作ってるようで、抽象的な語句と具体的な語句とが
無意味に羅列されていて、あまりに感覚的でもあり、難解でもあります。
言葉というのはコミニュケーションのツールなので、個人的な感覚だけで綴ら
れてしまうと意味不明になります。普遍的であるべきでしょう。

他でも書きましたが、ザ・ピーナッツには自作というものがありません。
現代は自己を主張しないヤツは阿呆だというような風潮がありますが、それは
違うと思う。
俳優は俳優であって、監督をしない俳優なんか二流だと思うのは愚の骨頂。
ザ・ピーナッツは自己を表現しているわけじゃなく、ザ・ピーナッツという
キャラクターを表現しているのです。
そういうのは好きじゃないというのも勝手ですが、あまり自己表現ばかりだと
辟易することもあろうかと思います。

その代わりといっては変ですが、スタッフが最高です。
そして、お互いを尊敬しあっている、信頼しあっている素晴らしい関係です。
ザ・ピーナッツの作詞や作曲が無いことは既に述べましたが、宮川泰作詞と
いう楽曲だって存在しないのです。役割とはそういうものでしょう。
プロフェッショナルとはそういうものなのです。違いますでしょうか?
今や作詞・作曲・編曲・歌唱・演奏・録音まで全部やってしまうなんて事も
ある時代です。自己表現としては最高なのかも知れない。
だけど作品としての出来映えはどうなのでしょう。疑問符も付きます。

全部が、或いは殆どが自作であるとオリジナリティ溢れる作品が出来そうです。
しかし、そもそも音楽という範疇の表現においてオリジナリティだけで作品と
なるものなのでしょうか?
そうじゃなく先人の培った土壌の上で、先人が工夫した慣習に基づかないと
音楽にはなりにくいと思います。だって五線譜そのものが慣習じゃないですか。
武満徹さんのような特殊な楽譜を開発したりする芸術もあります。
そこまで行けば大したものですが、巷に流れる音楽はそんなもんじゃない。
楽譜なしで作っても、それはコピーし加工した音の断片のパッチワークでしょ。
小さな真似部品の集合です。オリジナリティ溢れる作品とは言えないでしょう。

その意味でも、たかがラジオ番組で一ヶ月しか流されない「消えモノ」なのに、
たまたま残された録音が今でも価値があるということは、それだけプロの仕事が
成されていた証でもあると思います。
世が世であれば、という言い回しがよく使われますが、ニッポン放送で流れた
多くの楽曲は、それがそのままアルバムに収録されて発売されても良いような
品質を備えていたと思います。
現代ではアルバムデビューなんか珍しくないほど、簡単に楽曲が商品化されて
ガラクタな音楽が巷に溢れているのです。
たまたま残った録音を集めても、これだけの内容なのです。惜しいですねえ。
(2009.02.14記)


<付録>
短期集中連載シリーズ

ザ・ピーナッツ萌え〜(その6)

先日、こんな本を書店で見つけ、買って読みました。

勿論、小説家になりたいわけじゃありません。(笑)
そもそもクリエーターという人種はオタクじゃないのかい、と思ってるからです。
オタクはオタクじゃない人に比べて小説家になれる資質があるということである。
しかし、世の多くの人に認められないようなマイナーな人種こそオタクじゃない
のかなあ、という感覚もある。
無意味なことにこだわって凝っているような人、役に立たない人種、そんなのを
オタクと狭い意味で言うんじゃないかと。表舞台に登場したらオタク卒業でしょ。

小説家になりたいわけじゃないが、書いたものを読んで頂くという意味であれば、
このレコード随想もその範疇に属するわけで、皆に受け入れられるシリーズへと
発展させる秘訣のようなこともわかるのである。
すると、結局、自分の指向とは違うな、ということで妙に納得してしまう。
自分の書きたいことと、読者が読みたいことは違うということにつきるのである。
個人的な人生観、価値観、体験話など、本人にとっては意味があっても読者には
何も面白くない。読む時間が勿体無いくらいだ。

だが、私はより多くの人に読んで頂こうなんて全然考えていない。
逆に極めて少数の人がどこか一ケ所でもいいから、自分も同感だなあ、と思って
くれたりしたら、それで十分なのだし、こんな風に考える人もいるんだなあでも
いいのです。
売れる小説家には戦略があるらしいが、レコード随想は読んで頂くのが目的じゃ
なくて、書くことだけが目的なので多数の支持は必要としません。
書くだけなんて、そんな無意味なことを何故やるのか。
それはザ・ピーナッツ萌えオタクだからです。習性だから目的はないのです。

今日、手塚治虫さんを描いた漫画(数多い)を見ていたら、なんと岩谷時子さんが
出てきましたよ。こんなところで結びつくとはねえ。
宝塚歌劇の機関誌を編集するお仕事をされていたので、そこに手塚さんの漫画が
連載されていて、その原稿を手塚さんのご実家まで取りにいったんだそうです。
オタクというのは、こういう逸話が大好きです。
ザ・ピーナッツのサイト記事が終着したら、手塚さんの漫画を揃えたいですね。
散発的にしか持っていないからです。費用もかかるからボチボチやりたいです。

手塚治虫の漫画を揃えたら何かいいことがあるのか、と問いつめられると困るが、
これも好きだから、としか言いようがない。
世間的に大評判であろうとなかろうと自分が感動出来るものが素晴らしいと思う。
歌手はザ・ピーナッツだけじゃないし、漫画家は手塚治虫だけじゃない。
だけど総花的に鑑賞する趣味は無い。自分の時間は有限だからこそ厳選したい。
広い知識や視野も必要だろうが、一つのことを探究していても発展するものだ。
マクロはミクロに通じ、ミクロはマクロに至る。その概念は火の鳥から得られた。
ゆっくり自分で反芻しながら読む。これはアニメーションでは出来ない。
手塚先生は「白雪姫」を50回、「バンビ」に至っては80回も見られたそうだ。
アニメーションは音楽と一緒で時間芸術だから、立ち止まってくれないからね。

関係ないことだけど、ついでに書いてしまいますが、Macintoshの古い機種で
こういうテキストを書くのは大変に骨が折れます。
WINDOWSマシンをお仕事で使っていましたが、こちらの日本語変換ソフトは賢い。
良く分からない言葉でもひらがなで入力して変換すると前後を正しく入力する程
大正解な熟語や諺がそのまま出てくる。実に文章を作るのに向いている。
最新のMacintoshでは、その環境も随分とマシになって、ほぼ同等かも知れない。
しかし、毎日使っているマシンは古いOSなので「ことえり」という日本語変換の
ツールが使われるのだが、これが大馬鹿モノなので、ほとんど誤変換ばかり。
本当にありえないだろ、という変換結果を候補として上げてくるし、肝心の語句は
候補にも出てこない。漢字を単独で入力する。したがって文章修行の毎日である。
それでも、このOSにしがみついている。これが好きなんである。
駄目な子供ほど可愛いのだ。これもオタクのようなものだろうか?

<以下>ザ・ピーナッツ萌え〜(その7)へつづく。